• 2015.08.08 Saturday
  • 22:15
2014.10.22 006.JPG



そのひとはまだ叩いている
「大丈夫、わたれるよ!」橋はいう
叩きながらおそるおそる…わたらない人
たたかれるとよっしゃーとちからをいれる橋
 
ながい月日がすぎ、橋はこわれはじめる
「だいじょうぶだよね? 」なおもたたくひと
 
橋は病み、もはやがんばれない
橋げたがくずれはじめる
 
真実のながれの水位が上がり
橋をながす
 
流れる橋に電話がとどく
「もしもし、まだ渡れるよね?」




 
 

慈愛という核心

  • 2012.02.19 Sunday
  • 23:05
2012.1月 003.JPG


 

例外はあるとしても、

たとえば、そこに人が倒れていれば、何を措いても駆け寄ります。

だれかに優しくしたい―という思いはどこからくるのでしょう?

役に立てることを喜びとする。

わが身の命もかえりみず、ホームから電車のやってくる線路に飛び降りたひともいました。

 

それは人間が、霊的な存在でもあるからではないでしょうか?

 

自我・思考・意識・エゴそのような意識こそ自分だと、長い間思っていました。

しかしそうではないようです。

なにか、ことばではいいあらわせないものが、ある。

言い表してはいけないもののようでもある。

 

人間は、本来は愛(慈愛)そのものだ、とKは言う。

もともと人間存在の芯は、真であり、それは慈愛とか慈悲とかいう言葉いわれるなにかだと。

それを覆ったものが自我であり、行使するエネルギーがエゴなんだと考えてみる。

 

 

私はみなそう―慈愛―なのだとおもっています。

ただ、覆われている。

「覆うもの」はなにかといえば、生きのびてきた過程で身につけ脳につけてきた様式で、生き残るためにしてきたこと―人間同士の闘い、狩りをして同胞である動物を殺したり、暴力的な行動にでることや、強欲であることや、共同社会で生き続ける為に身につけた仮面、など―生きのこるために、安全、継続、繁栄を目的にしてやってきたことがシステムとして覆っている。そのパターンが自動的に動いているのです。

 

 

これはKを読み込んでわかってきたことです。

これがみえてきたときは革命的でした。

 

 

生きとし生けるものをわがことのように思える心のあり方こそが、成長をとげた欲望、すなわち慈悲に相当するのです。「欲望」がなくなると、どのような人間になるのでしょうか」という問いには「欲望がなくなると、慈悲をもった人間になる」と答えることができるでしょう。       ―p54  羽矢辰夫『ゴータマ・ブッダのメッセージ』より

 

コロッケ屋さん

  • 2010.11.27 Saturday
  • 22:46
2010.11月3 007.JPG


昔、よくお惣菜を買いに行かされた坂の上のコロッケ屋さんは、揚げ立てにソースかけて経木に包んでくれた。

注文を言ってまつあいだ、コロッケのいい匂いがながれてくる。

おおきな油鍋があってそのこちらがわでは、経木をひろげて注文分のコロッケなどを包み代金をうけとるひとがいて、そのひとはよく替わった。

鍋の向こうではもくもくと仕事をしている女の人がいた。

そのひとは、40くらいか、色白の肌に白衣をきてどこにも余計な視線をこぼさなかった。

客の注文を聞いて、馬鈴薯の皮の混じった小判型にするか、冷蔵庫をあけて開いたアジをとりだすか、カツを注文すると肉屋さんのほうから肉片が届けられた。

それをおおきなボウルの小麦粉液にするりとおとし、菜箸でそっとひきあげてパン粉をつける。なにかいいきかせるようにパン粉を押して、すいと油に放してゆく。

ときおり、間ができてふと往来に視線をなげていることはあった。

私は待たされる間、いつもそのひとの仕事にこころがひきつけられた。

「仕事をする」というよりもなにかそれ以上のものを感じていた。

どんな人になりたい?ときかれるとコロッケ屋さんと答えた。

 

きっと何年もおなじことをしていたことだろう。


…ねえ、わたしのお母さん死んじゃったの。お父さんと私のおかずを買いにきたの。

そう心の中で話しかけたこともあった。

彼女はかわらぬ風で、私のことは買いに来た客のひとりいじょうではなかった。

 

どこにも視線をさすらわせることはなく、その一連の作業はとてもスムースで、美しくさえあった。

 

ただ、人が、その持ち場で、ひたむきに仕事をしているということの、うつくしい光景。

そのひとの仕事は小学生の魂を共振させ、還暦をすぎたわたしの記憶に明るく残る。

 

懸命に座禅を組む以上のものが、その白衣のひとにはあったようなきがしてならない。





 

 

反転

  • 2010.10.06 Wednesday
  • 23:28
2008,9月 緑.jpg


反転



窓を開け


樹をみる。


朝の


低気圧のなごりに


どう と揺れている



一瞬


億千の葉に私がなって


揺れ


ひらめき


生まれたての光を反射させる

 


そして葉たちが


ふと、窓の私をみた


私が、ふしぎな様式で揺れていた。

 

ブランコからみたゆれる世界のように





お楽しみ切符

  • 2010.09.27 Monday
  • 20:26
2008,9月 緑.jpg


この世は


遊園地の切符を手にして


戦場をまわるに似ている


 

幻想の遊園地をみつけ、思う存分あそぼうや


そうやって、そうそうに切符を使いきるといい


思う存分くりかえし


そうしているあいだにも


みまわせば戦場はかわりなく


傷だらけのちいさなからだがそこかしこ斃れている

 


握りすぎてじっとり湿っている切符を捨て、


もう買わない時が来たか


(病気でできなくなるまで、わたしは捨てられなかった、その程度の人間なりに。)



このていどの私は、病気でなくなると、リセットして切符を買いにゆくのではないか?

 


どうと風が吹き


              丈高い樹をゆらした










出会いと徒手空拳

  • 2010.07.13 Tuesday
  • 21:48
開墾 039.jpg


 

もうすこししたら、なにかちゃんとした言葉をいえるかもしれない


でも、どのような言葉もいえないで、ただ立ち尽くし、魂の奥のゆらめく火のような現象を

ただ感じているときのほうが、私はすきかもしれない


それを抱きしめる。

 

人の表現したものが、魂の岸辺に漂着したとき、

それを開いて涙を流したら、ひとはどうするのだろう。

 

かつて私は、接近したい情熱にくるしみ、けっきょく「してしまう」ひとだった。

舟を漕ぎ、苦しむ人がいれば、私の無能を嘆いた。

 

いまや置き去りにされた漂流物

荒れ果てた浜辺

 

そんな私にも、

手紙をくれたひとがいる

メール、コメントをくれたひと

電話をくれた

…魂

 

 

星間分子雲のなかに生まれた

主系列星のひとつとひとつのような、

 

衝突し、合体する星ぼし

または衝突し、分離する星

 

               出会い

 

現実の私は、明日で62才になる白色矮星

 

それは、かそけき出会いと別れなんだと

 

ただ、そのありのままを、そのままに。

 








山小屋の詩人

  • 2010.05.09 Sunday
  • 17:44
アザレア  

 

モトさんは

黙って目だけみひらいている男だった

名のある詩人だといわれた

 

ディスカッションのなかでは、酒も飲まず、背筋を伸ばし黙っていたが、何かをきくと

ものすごい深度の話をした。

頭がよく、博識だった。

すごいと思った。すさまじいと思った。

 

どういう詩を書くのか読んでみたかったが、そんなことはいっさい無頓着で、ただ自分

は食うためにここにいるん
だという姿勢をくずさなかった。

 

奥さんと離婚したばかりだった。

山小屋の元従業員だった元奥さんは、元亭主のモトさんを目の隅にみながら、ひとり

で来て遊んでいたが、女優
のように綺麗で、さばさばしていて、魅力的な女だった。

モトさんは、速攻で、アルバイトの女の子のなかで、ふんわりと非現実的な雰囲気の

不思議なコをえらび、次の嫁さんにした。

 

モトさんに、私の「詩」らしきものを送ったことがある。

かってに送りつけた。

モトさんからはなんの反応もなかった。

それは、たしかに批評すらする価値のないものだった。

 

モトさんが結婚式をあげたとのうわさが耳に入ったので、ふたりの新居に

「ビバ!結婚」とかいう、へんにはしゃ
いだ電報を打った。

山小屋がそんなふんいきだったのもあるし、また、なにかてれのようなものもあった。

 

私ののぞみは、哲学を厳しい表情でかたる詩人と、サシではなしがしたかったのだ。

なにか大切なものに到達する唯一の道のように思えた。


「詩人」はそれにも無反応であった。

無学なキチガイ女が…!とでもおもっていたのだろうか。

無視されたことで、送ったことを恥じた。

 

返事がないということ、沈黙とは、否定の意味だと取った。

私については、詩ははっきりダメだと思った。

「詩人という人と、友人になりたい」と思った自分をセセラ笑うしかなかった。

 

リルケが、「若き詩人」と「若き女性」にあてた素晴らしい手紙群がある。

ヘッセも、世界中から郵送される手紙への大量の返信を書いている。

 

「山小屋で飯のタネと奥さんを調達する詩人」は、いったいどんな詩を書いたのだろう

か?







★前記事の写真は、「ブラックベリー」ではないのでは?とのこと。この地に自生していました。黒いキイチゴの実を結びます。名前を御存じでしたら、お教えくださればうれしいです。 



山小屋の青春

  • 2010.05.07 Friday
  • 16:41

                                                     ブラックベリーの花




 

都会を逃れ、ある山のふもとにある山小屋にとりあえず住みこんで働いて、死に場所

をさがそうとおもっていた。

 

その山小屋は、連峰縦走の出発地であり、冬には小さいながら斜面にゲレンデがで

き、スキー客を泊めた。

 

初日、夕食は全員がそろい、ステンレスの調理台で食べることに当惑し、最初に流し

込んだ物はすべて吐いた。

それは初日だけで、そのあとは、大釜で炊くおいしい飯をもりもり食って、太った。

 

夕食のあとは、一杯やりながら喧々諤々のディスカッションが深夜まで続いた。

 

そこでは、多くの人々が来たり、出て行ったり。

そこには、私にとって唯一「青春」といえるものがあった。

 

ヨッコという調理師見習の子と親しくなり、話したり、遊んだり。

「生活と芸術は両立するか?」というシンエンなテーゼをヨッコは立て、私はその答えを

所望された。

福井から来た調理師さんのやり方が固くて古いといって、ヨッコは、対面抗議をするよう

な子だった。

オーナーがお願いして来てもらった調理師さんなのに、結局おこって福井へ帰ってしま

った。

 

さまざまな男が女がやってきて、数か月働いては去ってゆく

川の流れの如く。

その定着性の無さ、利害関係の無さで、自由に解放されて、言いたいことを言い、やり

たいことをやった。

さらさらと水のような交流。

 

その軽さから、メレンゲ菓子のような感情を楽しんで、別れも甘いものがあった。

中には、実際結婚したひともいるし、不倫したひと、また捨てられたひともいた。

粘着する関係を持つ人ももちろんいた。

山小屋のオーナー夫人の公然の愛人さえいた。

それさえあっけらかんとあかるくて、湿った臭いはしなかった。

夫であるオーナー氏は30代でアルコール中毒で亡くなった。

 

私はここに来た理由が、人間関係から逃れてきたこともあったので、だれといって特定

の感情を持ったひとはいなかった。

人が来ては流れてゆくなかで、淡い好意が泡のようにうまれてははじけていった。

その男、その女のいいところを、めでた。

このような軽い人間関係というものこそ、私は青春だったなあと思う。

知らぬ同士も、すぐにうちとけて、こころをひらいたし、

知った人ならば、「**ちゃあん!!」「よくきたね!!」といって抱き合って、食い、歌

い、話し、数日後には別れがあった。

 

いまおもえば、あの山小屋に流れて来る人は、現世でつらいなにかがあった。

だからこそあんなにやさしくて明るかったのだろう。

 

それらを、動かざる山々がみていた。

360度 峰 峰 峰 …

山はだまってそこにあった

山に向かって言葉はまったく生成されなかった

「ただある」というおそるべきたしかな真実

私の「傷」やら「考え」、「葛藤」などは、きたならしい屑のようだった。

圧倒的な自然

それこそが、人間を人間にもどす大いなる力だった。

 

死に場所探索は、忘れてしまった。

ずっとここにいてもいいとおもった

しかし、あまりに気楽に幸せだったので、そのとき23才、このストレスのないところで、

ほっとのんびり根をはってゆくにはまだはやいという思いがあった。

また、そこではとくに私を必要ともされていなかった。

東京でもういちどやってみるか、そういってここをあとにした。

 

こころの底では、「死ぬつもりで、出直そう」と、思って、ここに来たんだな。









 

いっせいに緑

  • 2010.04.27 Tuesday
  • 10:25




冷たく凍った大気が緩み、木々の葉を一斉に生まれさせる。


茂ってゆく若葉の枝をみあげていると、人も浮かんでゆきそうだ。


浮力に満ちる、四月の大気は。






 





自我という鎧

  • 2010.03.11 Thursday
  • 22:11



 

ほんらい、ひとはうつくしい

 

ただ、なにかあまりに強力な鎧を着ていて同胞を傷つけてしまう

 

あなたとわたしと分離していて、あなたを排除してしまう

 

あなたとわたしと比較して、あなたを否定してみたり、わたしを否定してみたり

 

こうあるはずの自分をみていて、ありのままの自分をみていない

 

こうあってほしい相手をみていて、ありのままの相手に耳をかたむけない

 

つねに過去にとらわれ、未来におびえ、現実はその手からするすると逃れ去る

 

私たち人間が作り続けている泥沼に足をとられて





calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< October 2017 >>

言葉と出会う

My Kitchen

selected entries

categories

archives

recent comment

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM