できることをする。

  • 2010.12.20 Monday
  • 21:52
2010.12月 006.jpg


あれは小学校のときだったか、前にも書いたが、家で酒盛りをしている先生方のなかに、みんなに笑われているビア樽先生がかわいそうでならなかった。
ご本人もわっははと笑っていたが、私はからかわれている小太りの禿げ的な男がかわいそうでなにかしてあげたくてしかたがなかった。

「みなさん!なぜそんなに一人をからかうのですか?」と私は言いたかったが、言えず、座の外側でくねくねしていたら、彼のタバコの箱がぺちゃんこでそれもついでに憐れんでしまい、父のタバコ「しんせい」を4・5本追加したんですね。


「だれだ!」ということになりばれてしまって、こんなにバツの悪いことははじめてだったのだけど、私は「かわいそうでなにかしてあげたくて」というきもちのままにだれにも知られたくない、報いなどはまったく考えない“善行”をしたのだったなあ。

しかし結果は最悪で、「憐れんで」というのがずばり善行だとはいえません。

されるほうにしてみれば憐れんでというのは、もっともしてほしくないことです。

ビア樽先生は気持ち悪い女の子だとおもったでしょう、無言で怒っていました。

私のほうが、からかったひとたちよりも先生を傷つけてしまったのです。

ひとのためにするというのはむずかしいですね。ひとのためにするには未熟でした。

 

その後も、ひとのためになにかしてやりたい、そうねがって、できることはやってきました。

ひとの役にたっているというのは、うれしかったし、なかなか自己肯定できなかった私にとって、生きている意味を感じさせた。

なによりも「いいひと」になれた。

それらも結局は自分のためだったとおもいます。

 

いま病の進行とともになかなかできなくなってきた。
自分の面倒で手一杯。ああほんとうに人のために働きたいなあ。

阿呆な私自身が、なにかをまなぶために病気があると考えてみる。

 

仏教では自利利他という。自分を利し、他も利することができればいうことはない。

この世では、まず自分の世話をし、面倒をみる。

それがまずは自分の範疇だ。責任といってもいいだろう。

そして目の前の仕事をする。

そのうえで人も自分と同じであるという地点から、できることをする。

 

人の存在というものは愛にほかならない。

そうでないと思う人は、まだなにかに覆われているのだ。

 

「らばQ」にいい話がのっていました。

『“Today you.Tomorrow me."(今日、あなた…。明日、私…。)』

*私なら20ドルは、ありがたくうけとるな。それで、してもらったほうの気が軽くなるかもしれないし。

 

バングラディッシュのムハマド・ユヌスさんは、「施し」ではなく、「貧困から抜け出すシステムをつくること」と言いマイクロクレジットという方法で小さい資金を融資し、仕事をする手助けをする、グラミン銀行というシステムをつくった。

ビジネスとは金儲けだと思っていたが、ビジネスとは人を助けるもの、そう言うユヌスさん。

わたしが難民だったら、哀れみはまったくいらない、一口のたべものもありがたいが、そこから抜け出ていきられるシステム(仕事)にはいれるほうが何倍もありがたい。

 

 



*****

 

今朝、私が言いたいことを、ことばにしておられる記事がありました。


このような「自我の覆いをとりはずした」ような宇宙精神=愛が全世界にゆきわたりますように。

 


[
Master Of Compassion,Part2:慈愛をマスターする人続編]AWAKE NATURE JAPAN

 


「孤立から低所志向へ・その四」
甘口辛口





 

 

 


してあげるということ

  • 2009.11.16 Monday
  • 21:21

                                                           ツワブキ






「漠然と、様々な人間関係の中で、なんとかお互いが、それぞれができることをして、助け合うもの…」杉の子さんがコメントをくださいました。

 

それが人間関係だと私もおもっていました。

 

私の方向としては、ひとになにかできることをしてあげたいというおもいばかりが先行して、してもらうことがとてもニガテでした。してもらう習慣がなかったといえばそうでした。

 

あるひとに、「人間関係はgive and takeですよ」と諭されたものです。

 

してもらい、してあげる、それが健全な人間関係というものだと。

 

しかし、それをいわれたころの私は「バランスなんてクソクラエ」と思っていたのです。

 

なにか、してあげることばかりを考えていました。

 

 

そして、誰かになにかを、力をつくしてしてやったあげく、「なにもなかった」とも思い、「踏みにじられた」という経験もしたわけです。

 

(…伝わらなかったな…わかってもらえなかったな)

 

そう、考えた私の中に答えはありました。

 

じつは私は自分のために「やってあげていた」のです。

自分のために、自分の方法で、おしつけたのです。

そのとき、伝えたかったのは、わかってもらいたかったのは、一体なんだったのでしょうか?

 

なんていいひとの私?ただしく生きている私?役に立っている私?

 

それが「奉仕」的行為の実態でした。

 

「支配そのものじゃないですか」といわれたこともあります。

私が一途につくそうとした相手に。

そのとおりでした。

 

 

 

こころ、なんですよね。

 

こころは、おだやかにあいてのことをおもいやります。

 

できることを、無理なくあいての望むだろうようにやろうとおもいます。

 

そして、

おかえしとか、お礼とか、評価とか、成果とか、わかってくれる、そういう言葉は、入り込むはずのないものです。

 

だから、あいてが、「わからず」はあたりまえ。

 

わかってくれれば、稀有にありがたいと、こころはおもいます。

 

 

あなたもわたしも、みんな、おなじ人間です。

 

こころは、どうして、せずにはいられよう。

 

しかし、なにかと、しないことのほうが多いものです。

 

思いはつねにありますから、こころのままに、在れば、むりなくなにかができる「時」が、自然におとずれるとおもっています。


「思い」は「助け」になる。
そうおっしゃる杉の子さんからのコメントで、考えさせられました。









 

おなじにんげんとして

  • 2009.11.10 Tuesday
  • 22:40

                                                                                      今朝の霧



考えすぎ


もっと明るいほうをみたら

 


感情移入しすぎるね


なんだっていつもそうなんだ、あなたは。


会ってもないひとのことで

 



私は感情移入してしまう、どうしようもなく


うまれついてのやわな神経


親の愛をびくびくはかっていたものだった

 


そんな私の敏感さを、


「人もあなたも、幸せにしない」と言ったセンコーがいた。


鈍重でだらだらした授業、美人のハツミさんをはばかりもなくえこひいき。家にいりびたるうわさまでたてて、それがあなたの<反>敏感な「幸せ」なやりかたなのか。

 



私ははずることなく敏感で生きてきた。


たしかに、辛いことはつらかったし、まわりにも迷惑をかけた


悩まなくてもいいことを悩んだかもしれない

 




いま、会ってもいないひとにこころをくもらせる。


なにもたすけてはあげられなかったけれど。


むだな感情移入かもしれない

むだな敏感さかもしれないが

 


あなたのことはわたしのことだ


おなじにんげんとして。






 

聞かれる、ということ。

  • 2008.06.24 Tuesday
  • 20:09
kuko
ウグイスカグラの実


「天国についたら神様になんとわれたい?」
私は「どうでしたか?人生は。」と、聞かれたい。
神様は、ゆったり私にむかって、私の答えをいつまでも待っている。
私は、それに答える言葉は無いのだけれど、私の魂にむかってくださっている充足感でほかほかしている、てな具合。

まだ、社会人になったばかりのころ、事務所のひとに、
<カラマーゾフの兄弟>(ドストエフスキー)を読むの?とかのはなしになって、「あなたは三兄弟のなかでだれがお好きですか?」と聞かれたことがあった。
そのひとは、自分がだれに似ているか、だれが好きなのかがいいたくて、そのように聞いたのだったけれど。私は、うれしかった。
人間として、認めてくれたように思った。
「わたしはドミートリーににていますが、イワンにあこがれます。そして最終的にはアリョーシャになりたいけど、それはムリでしょう」
そう答えたような。

ホームで、じーちゃんばーちゃんたちは待っている。
なにを待っているか?
「話し相手」をまっているのです。
向かい合ってくれ、しっかり聞いてくれる相手を待っている。
どんなにかひとははなしたいのだろう。
はなしをきいてもらいたいのだろう。
そのことは初めから判らされたので、今は四人でせいいっぱいはなしを聞きに行く。
聞くというのは、とてもむずかしい。ほめるのもタイミングがあるし、ましてや質問もつけようとするともっと精神力がいるものだ。
・・・・・・とはいえ、終わってぐったり帰る私たちは、なにかたくさんの真実なものをいただいて、おなかいっぱいになっている。ごちそうさまです。


ブログという形が盛況なことも、やはりひとは話したい、聞いて欲しいのじゃなかろうか。
私もこんなかたちで話すことができて、いくぶん安定してきたように思われる。
読んでくださる方々にあらためて感謝いたします。ありがとうございます。


無財の七施(むざいのしちせ)というのがある。
『雑宝蔵経』のなかに、財力・実力が無くてもできる布施があって、

「眼施」(げんせ)人を優しい目でみること
「和顔施」 (わがんせ) 優しい顔をすること
「言辞施」 (ごんじせ) 優しい言葉をかけること
「身施」 (しんせ) 体を使ってできることをすること
「床座施」 (しょうざせ) 席をゆずること
「心施」 (しんせ) 心で思うこと
「房舎施」 (ぼうしゃせ) 宿をお貸しすること

岡野守也氏はこれに
傾耳施」 (けいじせ) 相手の言葉に耳をかたむけること を加えておられます。



 
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相手の都合

  • 2008.05.28 Wednesday
  • 19:35
egonoki

 
すくなくとも、ひとを好きになると、自分とあいての「自分勝手」に出会う。
「自分の都合」優先は譲れない。
そもそも「相手の都合」なんて無視。あってなきがごときもの?


ある時期、私は、聖書にいう「隣人愛」というものにとりつかれ、その“善いもの”を、周囲の人々に対して、すこしなりとも実践したいと願いながら日々を送っていた。
(このように、言葉から行動をおこす人種は、野口晴哉の体癖では2種に分類される。)

そうこうするうちに、それに立ちふさがる自分と相手のエゴというものにつきあたった。それはそうとう手ごわいものであり、これはいったいなんなのか、知りたいと思った。

私は「愛」などと口にするが、たとえば飢えていて、一切れのパンをその隣人に譲ることができるのだろうか?日常的に飢えるということの実感がないのでなかなかわかりづらいが。
映画などで、恋人の身代わりになって撃たれるなんていうのもあるが、果たしてとっさに、銃口の前に立てるのだろうか。
もっと究極、収容所でナチのきまぐれの死刑におびえる見知らぬ隣人の、その身代わりになったコルベ神父がいる。

わたしにそれは「できない」。できるはずがない。と思った。

命というものは、<生き残ろうという意志>そのものだからだ。
コルベ神父はそれを凌駕する信仰があった。

<自分は生き残ろう>という行動は、自然の理なのだ。
つまりエゴイズムはごく自然な命の言葉なのだということが漠然とわかった。

では、献身や愛などは不可能なのだろうか?

人間はエゴである。
自分が一番可愛いし、反射てきに自分を守るだろう。

しかし、
私自身、「隣人愛」という言葉はエゴにまみれてしまったけれど、一期一会出会う人々を大切に思い、できる限り誠実にあろうという思いは生き続けている。
最近では、身体が弱り、引くことが多くなったが。

また、
命をかえりみず、行動にでるひとたちというのは、存在する。
そのひとたちは、自らがエゴイズムを超えることを願い、ひとのためになることを一歩一歩しているひとたちだ。
そういう日々を送っていると、ことあればとっさに身体が真正に行動を起こす。
その結果命を落としてしまうのは残念だが、自己犠牲などという自分のための行為とは一線を画す。

そういうひとたちは日々「きれいな魂」であり、そうあろうと生きているのだと思う。

前に進むことはできる。わたしも一歩でも前に進みたい。

そして、
さりげなく「相手の都合」にこころを寄せることができ、たとえば「最後のパン」のひときれであるならば、自然に人と分かち合うことができるような人間に進化したい。







ひとを助けたい

  • 2008.05.17 Saturday
  • 20:46
kumari
1990年 カニャクマリの少年たち(見田宗介さん撮影)

社会学入門・・・人間の社会の未来>見田宗介(岩波新書)を、社会学の壁にとりつくべくまず、ざっと読んだが、やはり難しかった。

そのなかで、一生忘れないだろうとおもわれるコラムがあって、心を明るく照らされる写真とともにここに書きとめておく。


<コモリン岬>

私は、1990年にインドの最南端コモリン岬(カニャ・クマリ)にいた。
ある夜明け前、朝日がのぼるのをみようと、暗いうちに磯にでて、岩場を歩いていた。
岸ちかくたくさんの舟があり、その陰に寝ていた人々がいて、私を見守っているようにかんじた。

なおもあるいてゆくと・・・・「不意に激しく切迫した、ほとんど金切り声みたいな人間の声が聞こえる。」意味はわからないが、それ以上行ってはいけないと言っているようにおもって足を止めた。
「少なくともわたしのような異教の人間が立ち入ることを許されていない、<聖域>があるな。あの切迫した金切り声のような制止の声は、彼らにとって大切な<聖なるもの>を、守る声だな。

ここには少女神をまつる聖所があった。神聖な場所に異教徒が立ち入ってはいけないという制止の声だとおもい、足をとめると、金切り声はやんで、一転して屈託の無い明るい声が話しかけてきた。みんな十代前半の男の子たちだった。家の中で寝るよりも気持ちがいいのだと言う。
彼らは私がそれ以上足を踏み入れなかったことをほんとうによろこんでいたが、理由は「わたしが想像していたものとは全然ちがった。」

わたしの一歩先には絶壁があったのだ。
彼らは私がどんどん歩いていくので、どきどきしながらずっと見ていたのだという。よかった。と、かれらは口々に言って、くり返しうれしそうにうなずいてみせた。」
それから私は少年たちとふざけ合い笑いあって過ごした。持っていたカメラをみて撮ってくれとせがんだ
。(その写真が上掲のものだ。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私はこの日のできごとを忘れていたのだが、
15年経ってこの朝の経験の「意味」がはっきり立ち上がってきた。

2004年の「スマトラ沖大地震」は南インド一帯を襲った空前の津波を引き起こした。

私はカニャ・クマリはどうだったか、インターネットで調べてみると。一件だけカニャ・クマリのレポートがあった。

カニャ・クマリの沖合の岩場の上に数百人の旅行者たちが津波のために取り残された。インド空軍のヘリは救助を数回試みたが断念し、食料と水を落とすのみであった。

このとき100人以上ものカニャ・クマリの漁師たちが、高潮の渦巻く海に生命の危険を賭して小さい漁船でくり返し乗り出して行き、500人以上の旅行者たちの生命を救った。『私たちが今日生きているのは、この土地の漁師たちのおかげです。』と証言し、漁師のひとりは『助けを求める人たちがいる。やるしかないでしょう。』と答えている。」

「15年前のあの底抜けに屈託のない少年たちは、今立派な漁師たちになっている年頃である。写真のうちの幾人かは、この果敢な行動に加わっていることはまちがいないと、わたしは思う。『やったな。あいつら!』
」・・・・私は誇りに思い、うれしくてしかたなかった。

大人になったら失われる、ということのない<きれいな魂>というものがある。<きれいな魂>の生き続ける世界というものがある。この世界を行動によって再生産し、守りつづける人々がある。」

「15年まえ、『何の関係もない』ひとりの旅の人間の、勝手な独り歩きを危険から守りぬくために、あんなにも金切り声を上げ、夢中で制止した少年たちの声は、やはりひとつの<聖域>を、守りとおす声であったのではないか。失われてはならないひとつの<世界>の存在を、守りぬく声であったのではないか。少年たちの精神はそれを意識しないが、少年たちの身体がそれに反応してしまう。身体は精神よりも真正である。この<聖域>は、けれども区切られた聖域ではない。全世界にひろがって行くこともできる聖域である。私たち自身の方でそれを拒否しているのではないなら
。」                                ――――――――――見田宗介


<聖域>は、この日本列島のなかにも存在する。
災害にあったひとびとを助けに行くひとびとは少なくはない。
たとえば、ひとが道でたおれたら、それを放って置く人のほうが少ないのではないか。
ひとは、人を助けたいものだ、できることをするものだと、私は信じている。

ひとのためになされる行為というものがたしかにある。
<きれいな魂>はひとびとのなかにあるではないか。

私も、それを、ふれあうひとびとのなかに感じとることがある。
なにげないことだけれど、それをかんじとることができるとき、(あなたと同じ)人間でよかった、と思う。




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メラニーの死

  • 2008.05.06 Tuesday
  • 22:22
mori


「風と共に去りぬ」でだれに憧れましたか?
スカーレット?レット?アシュレイ?それともメラニー?

私はメラニーです。

一人娘を事故で死なせてしまったレットは、嘆きのあまり、部屋に遺骸とともにこもり、葬式もさせない。スカーレットがなんとかしてくれとすがったのは穏やかなメラニーだった。彼女はレットのこもった部屋に入ってゆき、しばらくして憔悴して部屋からでてくる。
「だいじょうぶ、わかってくれたわ・・・・」
レットはメラニーの長時間の説得で娘の遺骸を手離し、葬式をすることを譲歩したと。そして、あまり丈夫ではないメラニーはそれがもとで死んでしまう

私は、そういうメラニーの生き方が理想だった。そうありたいとねがっている自分がいた。
たのまれたら全力をつくし命すら削ってひとのために行い、死ぬこと。
それは、一発で自分を有価値化し、人生の意味も確定する。
しかし、それはほんとうに「愛」の行為だろうか?

メラニーは死んでしまったが、彼女に依存していた夫のアシュレイを腑抜けにし、不幸にしてしまった。


私は、自己犠牲を至上のものとする考えから、わりと早くに脱した。自己犠牲は自分のためであることが臭かったし、なにより私がだれかの犠牲で生かしてもらったとしたら、エゴイストの自分としては、一生苦しくてしかたがないだろうと思うからだ。

メラニーは、スカーレットに世話になっていたし、スカーレットの不幸のどん底での頼みをきいてあげたかった、メラニーの性格からいっても、それはそうするしかなかっただろう。

しかし、・・・・・
メラニーは部屋に籠もったレットをすきなようにさせればよかった。
愛娘の亡骸と思う存分ともにいさせてやり、納得するまで待てばよかった。
そして、気持ちに寄りそうように、そばにいてあげるしかないだろう。
死ぬまでやってはいけない、のじゃないか。

「風と共に去りぬ」はフィクションだから、メラニーの死が必要だったのだけれど、そんなふうに考えさせる物語だった。

自己犠牲は、愛とは反対の行為のようにおもう。






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手をさしのべる

  • 2008.04.13 Sunday
  • 21:51
十牛図
十牛図 第十図「入廛垂手」

十牛図とは、禅の教えを図にしたもの。自我を牛にたとえて、十の段階がある。
最終目標は「悟り」だと思っていた。

しかし、じっさいには、最後の第十図が「入廛垂手」(にってんすいしゅ)という。
「廛」とは、村、ひとびとの中という意味で、「廛」に「入」って、「垂手」手をさしのべる、つまり救済ということを最終目標にする。

釈迦は全人類が救われることを誓願したことをおもえば、それはそうなのだが、私はてっきり、さとりをひらき、仙人のようになって、山にこもるのだと思っていた。
反対なのだ。村(ひとびとのなかに)にでてゆくのだとのこと、私にとっては、どんでんがえしの結末だ。

「人々に手をさしのべるために、ひとは解脱をめざすのだ」といっているのかもしれない。

自分が救われるだけでなく、人の救出に向かってゆくのだ。ひきこもってジコの輪廻などまわしているせまい根性ではないのである。

そこまでしなくては、見知らぬ他人に手をさしのべられないのかもしれない。

高層ビルの火事で、助けをもとめているひとを、訓練されたレスキュー隊員が救出するのだ、一般人はいくら心配したとて見ているだけだ。へたに手をだせばけがでもしかねない。

ほんとうに、ひとにてをさしのべるにはそこまでいかなくてはできないことだということかもしれず、みにつまされるものがある。


しかし、どんなであっても、ひとに手をさしのべることはできる。
そのひとのできる範囲でなされればいい。
事に因ったら、それが誤解されたり、相互に傷つくこともある。けっきょくはじぶんのための行為かもしれない。

それでもなお、その行為は尊いことだと私はおもっている。
NPO、教会、ボランティア、個人では夜回り先生など、そのほかたくさんの人々・・・・・・
私などは言うだけであるが、じっさいやっているひとはほんとうに偉いと思う。
頭が下がる。




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一見無意味

  • 2008.04.07 Monday
  • 17:20
モミジイチゴ
モミジイチゴ


西村隆さんは37才でALSを発病、車椅子の生活のなか、おさないお子さんをお膝にのせてあそばせるのだが、落ちないようにすこしだけひざをあげていることに気がついた。膝の上では、3才の坊やが無心に遊んでいる。


そんな数センチの努力は「自己満足」にすぎない、むだなことかもしれません。してもしなくても同じならば、しないほうが得なようなきがします。

大切なのは、わずか数ミリでも《膝を挙げて》子供を守ろうとする、意志、気持ちです。どうせ無意味なことかもしれません。だれの目にもにもつかず、知られることもなく、ましてや評価されることのない努力、配慮、やさしさ。

周りを見直してみてください。生活のあちらこちらで、さまざまなひとがしている、一見無意味と思える《膝あげ》がみつかるとおもいます。

――――――――<神様がくれた弱さとほほえみ> 西村 隆




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情熱を傾けたすべての人から教えてもらった

  • 2008.01.31 Thursday
  • 16:59
taiju



ひとの役に立ちたいといろいろ
「イイヒト」やってきたけれど
結果、誤解されたり、傷ついたり
それは私が未熟だからね

ひとの役に立ちたいっていうのも、考えてみりゃぁ自分の都合でしょ、
じぶんの幻想でしょう?

それを相手に押し付けていたってことになってないか。

相手には相手の堅牢な幻想(都合)がある。
つくした相手が「自分の思うように反応しない」と嘆いたって、
相手にしてみれば迷惑なの。
相手には相手の独自のセオリーがあるのよ〜。

しいて「愛」というならば、
こちらの幻想(都合)はとりあえずしまっておいて、むしろあいての幻想(都合)をうけとめることがさきじゃないの?
・・・・な〜んて、そんな難易度高いことができるかどうかわからないのでとりあえず、
「相手にも自分とおなじくらいの質量の幻想がある(しかも異質の)ことを知る」ことから始まるものじゃないの?と。
耳を澄ませて。こころを傾けてね。
私が情熱を傾けたすべての人からおしえてもらった。





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