神様に愛されているとしかおもえない

  • 2010.01.12 Tuesday
  • 21:54
 

 

 

TVのチャンネルをまわしていたら、

すみきったピアノの演奏がながれてきて、こころに直行した音があった。それは辻井伸行さんだった

彼が名だたるコンクールで受賞したことは知っていたが、若年ということと盲目ということでもてはやしているかんじがして、私の体はそういうところから後ずさりしてしまう傾向がある。

しかし、かれはそんな世間の毀誉褒貶にはかかわりなくおのれの音をきわめてゆく。

熱情にあふれ、玲瓏玉をころがすごとき音のひびきは、まっすぐに魂までとどく。

ただピアノが好きだということが、その存在からあふれでている。

なにより、音がいきいきといのちをもっているかのようにながれでる。

いのちをもっているのだ。

なんという音のいきいきとした美しさ。

 

かれは音で生きている

モーツァルトも音で生きていた。音楽そのものが人生だった。

モーツァルトの手紙と、あの美しい音と段差がありすぎると小林秀雄などはかいているが、音楽家は言葉で表現することは少しなのではないだろうか。

なぜなら、風の音、木の移り変わり、そらの青、ひとのうつくしさなどは、モーツァルトは音で感じ取っている。(とおもう)

音で生きるということは、言葉という概念に置き換える必要がない、楽譜という音符の記号に翻訳する必要がない。

音そのものがかれの肉体であり生そのものであり、喜びであり悲しみそのものなのだ。

 

我が家の音響装置で聴いても、ほんとうにひとを透明にする、うつくしい音そのもの。

生で聴いたらすばらしいひとときだろうな。

 

「彼は、音楽の神様に愛されている」と、先達のようなひとが言っていたが、

音楽のみならず、凡人の基準など軽くこえて、もうなにか人間業ではないような仕事を(生き方を)している人がいる。

そうとしかいいようのない卓越した人が、たしかにいる。

人間の努力の範囲、理解の範囲で、説明、納得することこそ、私は傲慢不遜なことだとおもう。

理解の範囲をこえてしまうと、「神」という概念をもってくるしかないが、私は、人間の限界をこえたものを、理解も分析もしないで、「ある」と信じている。

 

私とて、卓越するものがないまま愛されてはいるらしいのだが、そういう、文句なく「神様に愛されている」仕事(人間)にであえることは、凡人の至福だ。






 

現在(Present)

  • 2008.07.25 Friday
  • 21:47
yamayuri
ヤマユリ

瞑想のひとつとして、「いまなにを舌に感じているか?」「接している部分の皮膚の感じは?」「なにが聞こえるか?」と<現在>に集中するエクササイズがある。それをしてみると、いつもは、<いまここに>生きていないことがわかる。

また、おいしいものを食べていると、ふときがつくと、つぎになにを口にいれるか、デザートはなにか、など、頭がつねにさきへさきへと考えてしまう癖は、いま食べているもののおいしさをたしかに感じていない。

痛かったり、苦しかったりすると、その実際の苦痛以上に、もっと苦しくなったら痛くなったらどうしよう…と、不安のほうが恐くなってくるものだ。

ひとは、「現在を感じ、<いまここに>生きる」ことをなかなかしていないように思われる。

さきの記事で<現在を失う>ことを書いたが、そもそも人間は<現在を失う>以前に現在を得ていないことが多いのではないだろうか?

人間は複雑な概念に本能がおしやられて生きていて、過去や未来や、ここでないところ、幻想、理論など、いわゆる概念にあふれかえって、<現在>を失っている。

たとえば、ちょっとまえの感情にこだわっていたり、つぎになにをするか考えて、現在・・いまここ・・にあることを意識して暮らす時間はとてもすくない。

過去や未来に実体はあるのだろうか?
過去や未来とひとが思うとき、思う場は現在の場であるが現在のことではない。ただの記憶あるいは想念、幻である。<いまここ>以外のことを考えている。

ときおり、なにも考えずにぼーっとすることがあるが、そんなときは肌をさわってゆく風や、自然の音が、永遠にあるかのごとく感じられる。

Presentは<現在>でもあり<贈り物>との意味もある。

<現在>とは贈り物。
いただいた唯一のいまここ。
その移り変わる一瞬一瞬を、現在を、肯定して、味わいたい。




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「平等」について、思い出すこと

  • 2008.07.24 Thursday
  • 17:43
yaburegasa
ヤブレガサの花


前に記事で、平等について書いていたら、ふと6年生の時のことを思い出したので、文脈にそって「許せない」と抗議したクラスメートのことを書いたのだが、考えてみれば、彼女(名前は忘れた)の正義感の正確さ、熱さはすごいなあ。

思い出してみると同じクラスの彼女はとても頭が良く勉強もできたが、優等生っぽくなかった。
私はまあ理由もあるのだろうが(たぶん劣等感)、本能的に頭が良い友人を避けて歩いていたので、仲良しになって遊ぶのは元気まんまんがとりえの友人たちとだった。

その男の子は、いまなら特殊学級というところに隔離されるのだろうが、当時はそんなものはなく、一クラスにひとりぐらいそんな子がいてあたりまえだった。
疎開族が多かった都会風の小学校のなかで着物に下駄を履いていて、農家のおかあさん風の素朴なやさしさをたたえたひとが付き添ってきた。
その子は頭がゆがんでいたので、「ぜっぺき」と呼んでいたが、いじめられていたのはみたことがなかった。
眼が大きく澄んでいて、ときおり不安そうに瞳を泳がしていた。

担任は、はじめての学級であったので、おおめにみたいものだが、授業中に私のとなりのひとが話しかけてきて、ひかえめに返事をしただけなのに「**!」と注意されて、通信簿にも書かれた…「授業中おしゃべりが多い」…しかし、私の両親は変わっていて、なぜかふたりともうれしそうに大笑いしていた。

担任君が「ぜっぺき」に平手打ちをくらわした原因はただ、応答しないというだけだった。そりゃそうだろう、「ぜっぺき」の声をきいたものはいないのだから。
「ぜっぺき」のあかちゃんのようなやわらかい頬に担任の手形が赤くくっきりといつまでも残っていた。幼な顔にそれは痛々しかった。

「許せない!」そう私も思ったが、なにかするつもりはなかったのに、その彼女は弱冠12才にして私ともうひとりをさそい「あれ、ひどいよね。抗議しにいこう!」と言った。

廊下で三人で作戦会議をしていたら、担任が通りかかったので、「先生!」とひきとめると「なんだ?」と言う。
「*くんをなぐるのはやめてください!」
「*くんは話せないんです、なぜ*くんをなぐるんですか?」
「暴力はやめてください」
「*くんには厳しすぎるんじゃないんですか?Sさんにはやさしいのに…」
「えこひいきはやめてください」

おもわぬ攻撃をうけてポカンとした担任はすぐに立ち直り不機嫌そうに「っ早く帰れ!」といってすたすた去っていった。
いまでは考えられないセンセイ君主ですね。

しかし、小6であのように「まちがったこと」をみきわめ、行動に出る女の子がいたことは、特筆に価するとおもい、書きました。




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人は平等ではない

  • 2008.07.23 Wednesday
  • 20:43
散歩道
夏の散歩道


「人生は公平でないことを知れ」とビル・ゲイツが学生に<学校では教えてくれない人生に役立つ11のルール>で垂訓していますが、
頂点に立った人にいわれると、なんか素直にきけないですね〜。でも、ユーモアをまぜて面白いことを言っています。さすが。

※実際は彼自身の言葉ではなく、彼が抜粋でチャールズ・J・サイクスの著書「Dumbing Down Our Kids」から引用したものだそうです。


人は平等ではないのは火を見るよりあきらかです。

<現在を失うだけ>で、おなじなのだといっても、その<現在>が、
ルンルンの人もあれば、現在苦痛とともにあり、その苦痛の現在が過ぎること、あるいは死によってそれから解放されることをもとめる人もあるだろう。
50年生きたひとと1年生きたひととは、濃度にはちがいがある。
100年仕事をして大往生した命と生まれて一ヶ月で消えてしまった命と、層の厚さが同じだとはいいがたい。
家族に感謝されながら逝くひとと、いじめられて虐殺されたひとと、はあきらかにちがう。

このように人間は平等ではないということは厳しい真実であることだが、なかなか納得しがたい真実である。

まあ中身の長短は措いておけば、かけがえのない現在を持ち、いずれその現在を失うという基本はシンプルに平等ではある。生死は平等な真実です。


なぜ人間は平等にこだわるのでしょうか?
平等があたりまえのように考えるから、「なぜ?」の問いが発生してくるので、ではなぜあたりまえのようにおもうのでしょうか?

そんな教育を受けたのかもしれない。
ふりかえれば私たちの教えられた基本理念は<自由・平等>の民主主義だった。
それは、基本的に人間は自由でなく、平等ではないからこそのスローガンだったはずが、そこのところはすっぽり抜けていて、即<自由・平等>であるべきだというふうに刷り込まれたように思う。

たとえば、小学6年のときのクラスにアタマの形が歪んでいて、ものをしゃべらない男の子がいた。いつも下駄をはいてきた。ある日担任が、その子が応答しないことに逆上してそのほっぺたを張ったことがあった。男の子のふっくらした頬に担任の手の形がはっきりと浮き出ていた。
それを「許せない!」という友人がいて、彼女と、その勢いに押された私が、担任に断固抗議をしたことがあった。「美人のSさんにはやさしいのに、*くんには厳しすぎる」というわけで、非常にア・プリオリに<平等であらねばならない>という概念におかされていたものと思われる。

<自由・平等>は権利として謳われたもので、現実は<不自由・不平等>ですね。

人は<自由・平等>でないことは事実のようです。

だから、がんばって、みずからを助けひとをも助けて、生きるんじゃないでしょうか。



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死とは<現在を失うだけ>

  • 2008.07.22 Tuesday
  • 19:41
バッタ
ちっちゃなバッタ君


南木 佳士(なぎ けいし)さんが、あるところで…
自分の働く医療現場で、日々幼い子供たちがつぎつぎと死んでゆくことに、『なぜなんだ?』という疑問がこころを去らなかった。これは『いのちとはなにか?』『人生はどういう意味があるのか?』ということにつながるわけだが、それをながいこと考えていたが、やっと、ひとつの回答にたどりついた。それは・・・・・

南木さんの問いは私の問いでもあった。
幼い子供の死はどう考えてもなっとくできるものではない。

南木さん・・・
それは、生き物が死ぬということはまぎれもないたったひとつの共通の真実である。そして人間以外の本能の生き物が死ぬとは、ただ死ぬ、現在が無くなる、つまり<現在を失うだけ>だ。・・・

そして、じつは人間もおなじで、人間が持てるのは「現在」だけで、死とは、すべての生物がそうであるように<現在を失うだけ>なのではないだろうか


子供も大人も<現在を失うだけ>そのことばに出会ったとき、長い疑問の端っこが解けたようだった。ひとはみな現在のみを持ち、死とは<現在を失うだけ>なんだ。と。

この答えは、死というものの「恣意性」「物語性」「ドラマ性」みたいな部分を掃きとったような感じがする。そして、死=<現在を失うだけ> というシンプルさ。

しかし、還暦といわれるまで生きておもうのは、幼いまま死んでいたら、こんなこともあんなこともわからなかったのだという思いだ。
<現在を失うだけ>にしても、それぞれの差は大きいのではないか。



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 おおきなちから

  • 2008.07.21 Monday
  • 17:26
サルナシ酒
サルナシ酒…おっちゃんこれくしょん

実存主義に影響されてか、自分が運命を創るんだという勢いで、じたばたと生きてきたが、いきついたところはニヒリズムだった。

たちどまってふりかえると、<にもかかわらず>なにかおおきな力にうごかされてきたことをかんじる。

自力でここまできたなんてかんがえることのほうが無理がある。

そのおおきなちからとはなんだろう?


自然の力
エネルギー
e=mc2
宇宙


そしてそれは、自分自身を含んで、在る。

http://labaq.com/archives/51010717.htmlじぶんのちっぽけさを実感できる地球と大自然の映像 
  

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<カラマーゾフの兄弟>…調和

  • 2008.07.06 Sunday
  • 22:49
fujidana
銀座の藤棚

「調和」ということばがでてくるが、「調和」とは、なんだろう?「イデア」とか「理想」とかいうものだろうか?人類がめざすもの、なのだろうか。「人類の進歩と調和」という大阪万博のスローガンがあったなあ。反対概念は「悲惨」とか「混沌」とか。

イワンは言う…
「このよの不条理は?悲惨は?オトナはまあいいんだ。問題は子供だ。幼児虐待がまだはびこっている。………うんこをもらしたというだけで親にせっかんされて厳しい寒さの夜に便所におしこめられた女の子がちっちゃな手をあわせて神ちゃまに祈るんだ」……
「そんな子どもたちがすくわれないかぎり、世界中の子供の涙があるかぎり、世界の調和なんてないんだ」と。

「知」のイワンは、どしがたい哀しみを含み、圧倒的な強靭さで、人間の愚劣さを問い続ける。<大審問官>では、牢につながれたキリストは答えず、ただ悲しい眼をしている。・・・という章がある。

人間とは神とは?という果てしない問いをやめなかったドストエフスキーだが、その原稿をみると、余白に突然、原稿料の計算をはじめたりしたらしい。

「意」のアリョーシャはさまざまな経験の末、絶望を乗り越えて、<春になってでてくる若芽のおずおずとした柔毛>、そこに<調和>はあるとひかえめに言うのだった。
“おずおずとした柔毛(にこげ)”って、若芽がかぶっているぽよぽよした毛のことで、ロシアの長く厳しい冬をおもえば、春のさきがけになる若芽が毎年ふわふわとでてくることははじけるような喜びであり希望であり美であっただろう。
このアリョーシャの結論に私は共感し、いまでもかわらない。

 この世に「調和」などあろうがなかろうが、悲惨に満ちてはいるが、しかしかけがえのないここでおまえはどうするの?と問われ、その答えをわれわれはいきているのではないかと。

そしてやはり若芽は常に美しく、おもいがけず知らず人は救われているのではないか、と思っている。




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<カラマーゾフの兄弟>

  • 2008.07.05 Saturday
  • 23:09
テイカカズラ
定家蔓の風車のような花が咲いている…夕刻になると香りだしてヤマいっぱいに満ちる…夜の饗宴が繰り広げられ、朝まで香りが残っている…


ドストエフスキーの<カラマーゾフの兄弟>の新訳(亀山郁夫さん)がもうだいぶまえにでたようだ。
私は米川正夫訳で読んだのだったが、物語は、ロシアの田舎町を舞台に、カラマーゾフ家の主人フョードル・カラマーゾフを殺した犯人はだれか?の謎解きを中心に三兄弟の物語は展開する。

カラマーゾフの三兄弟とは、情のドミートリイ、知のイワン、意(宗教)のアリョーシャと人間の要素をわけられていて、それぞれが絡み合いえんえんと続く一大ドラマです。
読みはじけると面白く、のめりこむように読んでしまった。
しかし、はたして私に読めたとは思っていない。

そもそも、ドストエフスキーの<カラマーゾフの兄弟>について書くなどというのは、こんなおそまつなアタマには、暴挙である。私が馬鹿であるという証拠であるなといまおもいつつ書いている。

父殺しの嫌疑は長男のドミートリイとイワンにかけられ、裁判でドミートリイが有罪、シベリヤに送られる。しかしこれは冤罪で、じつは、イワンの説(「神がいないなら人を殺してもよい」)に心酔した使用人のスメルジャコフが勝手に「イワンのかわりに殺した」のだった。スメルジャコフは首をつってしまう。

とにかく会話が多い。それもめっぽう濃い哲学的な話である。
イワンが書いたという設定の、大審問官とキリストの会話(キリストは答えないのだが)がすごい。

父の愛人であり、ドミートリイとも関係のある売春婦グルーシェンカという女性もえんえんとそういう力強い会話をするのだが、じつに魅力的で、女性というものの理想だと私などは思う。
文学作品のなかでよく男が女を描いても、だいたい男好みの「ははぁなるほど」というキャラで、このグルーシェンカほど底力のある美しい、しかも大地から孵化したようなエロチックな女をえがいたものはほかにみたことがない。



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「他人のためのもの」

  • 2008.07.01 Tuesday
  • 23:23
tuta

津田塾大を創立した津田梅子は53才のときひどい疲労や渇きなどで糖尿病と判明し、65才で亡くなった。
その日記から

「・・・・・・一つの活動する生命の終わり」
………
「自分自身のことにクヨクヨすることはない。永遠の事象のなかで、私や私のしたことなどとるにたらぬものだということを知らねばならない。・・・・・私の生命は他人のためのものであって、自分のためのものではない。」
………
「なぜこんな不運に見舞われるのか。なぜもっと長く生きられないのか。」
………
「しかし、私よりももっと価値のある、数限りない生命が、若い盛りにしんでゆくことにも理由がない。そしてこの孤独と寂寥の意を人は問い得ない。」


人のために仕事をしてれば、いくらでも時間が欲しいだろう。
しかし、思うように時間が与えられるとは限らない。

そんな志半ばでの死というもの……
また、津田さんも書いている、「若い盛りにしんでゆく」数限りない生命……
それを不条理というのだろうか

命は何の理由も無く終わる。または終わらせられる。
「理屈」などは、人間の頭がつくった概念にすぎないのだから、「不条理だ」と、神に異議をもうしたてることはお門違いだ。
逆に、「理由」などが、歴然とあったなら、かえって生きにくいだろう。

それでも、私たちは人間として、そのような、理不尽に亡くなった同胞を、心に抱くことはできる。
そして、与えられた命の時間を、そのひとたちのように自分以外のために、そして自分のために、いっぱいに生きたいと思うなら、そのひとたちの生と死は、意味があったといえるのではないか。
そう思う。



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なぜなんだ??

  • 2008.06.28 Saturday
  • 22:12
オオバギボウシ


なにを話していたときだったろう………

あなたが、「ひとが、無残に死んでいく意味がわからない」と言った。
「なぜなのか?」と。

………「むかし<はだしのゲン>を読んで、原爆で死んで行ったこどもたちやひとびとの人生はなんだったのだろうって。そういう疑問が、わたしのなかでずっとあって……」


私もそう。
………「ホタルの墓」の節子は清太は?
無残にいのちを絶たれた、累々たる屍は?

いまだにわからないのです。

生き物というのは、生きたい、生き残ろうという意志そのものです。それらは理不尽に断ち切られる。自然の理だと私たちは納得するものがあるけれど、戦争や犯罪などで、無残にたちきられ………

百歩譲って、そういうものだとしても、若くして死なねばならない者と、長寿をまっとうできるものとの「差」。人は平等でないこと。人間の生死に方程式なんてないことも知っている………
そうなのだけど、もし、私たちが納得できる意味があるのなら、知りたい。

私はもう人生も終わりに近づいたが、この問いはまだ問いのままです。

しかし、そういうことを、魂の痛みとともにずっと持ち続けている人が身近にいたこと、そして言葉をかわせたことが、ひとつの答えのような気がする。



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