過去はさっさと超えて忘れよう

  • 2012.07.16 Monday
  • 10:40
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『アクターズスタジオ・インタビュー』でミッキー・ローク、煙草とアルコール(?)同伴だ。

幼いころの義父の虐待、母のみてみぬふりで心に大きな傷。60になっても。『レスラー』は彼自身のそのままの台本だそうだ。語ることでカタルシスになる。
なによりも、演技ナシのインタビューで、私はこういう裸の人間像に会いたいのだよ!

 

■他人より「とびぬけたこと」をやってしまう。

■そして、それとそんなことをした自分を否定する。


この、私と同じパターンには驚いた。

親に肯定されていなかったからではないか?

義父に虐待された過去からではないか。


私は虐待は無かったから、おなじに論ずるのもフェアじゃないが、虐待と似ていなくもない精神環境―存在を否定されるという環境に育った。


私も追い立てられるようにとびぬけた馬鹿なことばかりやっていたし、そしてまたそんなことをする自分をけっきょく肯定できないで、いつまでもクドクドといじり自己を罰している、そんなところが共感してしまう。

 

気持ちの悪い厭な男だと『ナインハーフ』をみて生理的嫌悪感しかなかったが、25年後『レスラー』で自分をさらけだして、真実味のある存在をまのあたりにした。

いまだカウンセリングなどを受けているということだが、一生つきまとうのか?
親というものはほんとうに根深い存在なんだなあ。

 

TVの俳優の語るのをみていて、涙がにじんだ。

人間て、なんてデリケートで、したたかなんだろう。

 

ボクシングで、あの「売れた」美貌をおしげもなく打たせ、ぼろぼろになった顔面を整形し醜悪になって…「どのみち 歳を取ればかわるものだ」、というその感じも私には判りすぎる。

<護る>ということができない。

 

『レスラー』で、サイゴはどうなる?との問いに、「死。そのほうがいい」と。

自分を罰する。でなきゃニヒリズム…

無念で、悲しい死。

なぜ、一生、そんな幼少期のことがつきまとうのだろう。

 

「頑固で強情だったことは弱さだ。変わること、これは弱さではない」M・ローク

 

ここでミッキーのおかげで私のこともみえたので、ひとつ卒業しよう。

 

<過去は意味があろうがなかろうが、すべて超える価値しかない。>

 

ぼくは忘れるということを、素晴らしいことだと思っている。負け惜しみでなく、忘れるからこそ、つねに新鮮でいられるんだ。―岡本太郎









自分に気づくと…

  • 2012.03.05 Monday
  • 23:32
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欲望にも段階があり、分離した自分の欲望は、苦しみをもたらします。

 

(仏陀のように人を救いたいというような欲望というものもあります。それを慈悲といいます。)

 

苦しみをもたらす欲望というものを失くそうとしたり、押さえ込んだりすることはまちがいです。

 

なぜならその動機もエゴだから、エゴを強化するのです。

 

 

人間は一つの細胞から進化の道をたどって誕生する、うまれてからも進化しつづけ、脳は人類が到達した地点までを満たす。

 

そのシステム化された脳がまちがいだったというよりも、それを超えてゆくこと

 

 

だから、味わいつくすことだと、凡人である私はおもいます。味わいつくして越える。

 

もういいというときがいつか来る。執着が去る。

 

凡夫はそれしかてだてがない。

 

人類はそうやって、まえの段階をすべて含みつつ超えて進化してきたようですから。

 

 


『子どもたちとの対話』を読んでいて、クリシュナムルティはつまり「愛」なのだ、ということがじんときた。

そしてあなたがたも愛なのだと。

 

しかし脳はさまざまな障害物をしっかりつけ、しっかりシステム化していてそれがわからない。

 

愛をがんじがらめにしているのだ。

 

Kは、気づくことだというのです。

 

まずは自分に気づき、知ること。

 

何の批判も加えずに、見れば、それ(思考)は消滅します。とても不思議なことに。

 

その繰り返しです。

 

 

 

悲嘆を理解し、乗り越えていくには、内部で起こっていることを覆い隠したりせず、しっかりと見届けなくてはならない。〜あなたがはっきりとそのすべてをごらんになれば、何ら傷つくことなく、また世間的な事柄に流されることもなく、たちどころにそうしたものから抜け出てしまわれることであろう。―クリシュナムルティ

 



是非の看破に飽いたり(いいとかわるとか言っていることに飽きた)―訂正あり

  • 2010.12.15 Wednesday
  • 22:57
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回首七十有余年
人間是非飽看破
往来跡幽深夜雪
一柱線香古窓下

   ――良寛禅師

 

父は、私が食器を割ってしまうと、「形あるものはすべて壊れる」ととなえ、物のはかなさを言った。
それだもんで、茶碗を割るたびに「無常」を知り、たいした罪悪感も持たず、新しくなるぐらいの気持ちでスルーしていた。


ある事務所に勤めていたころ、ボスのお茶碗を落として割ってしまった。

ボスも、同僚も口をそろえて「**さんは、そんなことしない人だとおもった」と合唱した。

ボスなどはことあるごとに「しかし、**さんは…」といつまでも言っていた。
そのことは所帯を持ってからもいわれた。
よほど、そんなことはしないようなカオをしていたのだろう。

私ほどどじはいないのにそう思われるということは、そう思わせたい自分がいて、私は無意識の中で、完璧な(茶碗などわらない)人を演じようとして演じていたことはあきらかだ。

それが習い性になり、無意識に自分は「いい」=完全な基準というベースにのっとって生きていたように思う。

自分以外のあらゆる人を事柄を、それでもっていいとかわるいとか判定していたのはたしかだ。

TVで、○と×のちいさなプラカードをもち、揚げたり降ろしたりしているシーンがあるが、そんなことを人や物事にたいしてやっているかんじがしたもんだ。

 

良寛さんの漢詩に、「是非の看破に飽いたり」というのがあった。

……むむ。りょうかんさんも「是非の看破」をしていたとな。

あれはよい、これはわるいと?

 

誰が、よいわるいを言えるのかと、今は思うが。

「じぶんが基準、しかも完全な。」

そう思わなければいきてゆけなかった時期もあった。

 

飽いたり

さんざんやって(飽)きました。

そうやって超えてゆくしかみちは無い。この世では。





*****

自分レベルで解釈してしまいました。敬愛する良寛さんに無礼者でした。



「人間」は、人の世
「是非」は、是非得失
「看破」は、真理を見抜くこと


上掲の漢詩を調べましたが載っていないので、似た漢詩をみてみました。

「人間の是非 一夢の中」
解釈…人間の是も非もはかない夢の中のようだ (東郷豊治編著「良寛全集」より)

「是非の看破に飽いたり」
解釈…人の世の是非得失、真理を見抜くことなどに飽きた、と読めました。



良寛さんも含む人間が、人間界の是非をあれこれ考え、看破してきたが、するのにも聞くのにももう飽きました。いまはまるでそれが夢の中のことのようだ。という境地を言っているのだと解釈しました。

訂正します。


回首七十有余年  振り返ってみれば七十余年
人間是非飽看破  人間の是非の看破に飽いた
往来跡幽深夜雪  深夜雪が降り、往来の足跡はかすか
一柱線香古窓下  古い家の窓の下、一本の線香

へたな訳です。原文はあまりにうつくしく、しんとします。



水上勉の訳がありました。ご参考までに。


回首七十有余年  思えば七十何才もいきながらえて
人間是非飽看破  人間のしわざのよいことわるいこと、みな飽くまで見てきた
往来跡幽深夜雪  夜ふけてからの雪で、いまは往来も絶えている
一柱線香古窓下  自分ひとり、古びた窓のべに、しづかに一本の線香をたいて端座している











私は「正しい」か?

  • 2010.06.28 Monday
  • 22:41
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「正しい」としなければ、いきてゆけないような。

「正しい」、だからものをいえるような。

 

 

私は子供を授かったときに、おバカな非常識人間であることを自覚していたので、とくに

おもったのは、親である私が「正しく」なければ、どうしてこどもを正しくそだてるとができ

よう、ということでした。

まっとうな真人間にならなければ。

私の日々は正しく生きることにむけられたのが、27才のときでした。

「正しく」というのは、学校や社会や世間(周囲)の合意線のようなところだったとおもいます。

 

それから、それが、自働的にインストールされて、自分=正しい、子供=正しい未満、と

いうわけで、子供にたいしてつねに「正しい」というところからものを言っていた。

その子供の言うことを聞くことができなかった。いのちに耳を傾けることすらできなかった。

 

「正しいのはこれこれ」と育ててゆくのだから、「正しくない」部分をたくさんかかえている

子供にしてみれば、自信などそだつわけがない。

 

私も親に話をする訓練などさせてもらえなかった。

「なんだ、言ってみろ!」

といわれたって、なんの言う訓練もしていないし、自分は「正しく」ないと 思っていた

し、言えるはずがありませんでした。

 

私自身は、ずっとあとになって、チャンスをみつけて、話す訓練をして、話すことができ

るようになりましたが、なにせ、そういうことで、もともと話すことができなかったので、かる

い茶飲み話が苦手です。

 

最近「自分は正しいのだ」とおもいこんでいる自分に出くわして驚きました。

 

「私は正しい」というところから、無意識にものを考え、言っていたのです。

 

「正しく言おう」と努めているうちに、「自分は正しい」とおもってしまったようにおもわれます。

思考の罠です。

伴侶にたいしても友人にたいしても、怒ったりすることは、たぶん「正しい」ところからだ

ったと思われます。

自己に対しても、「正しい」標準の物差しで、はかっていました。

自己肯定感はなく、あったとしてもそんなおしきせの価値観の正しさならば、かえって

ゆがんでくるのです。

 

それから、「自分が正しい」と思っているところから、私はものを言うまい、書くまいと決めました。

 

「正しく」なくたっていいんだよ

あなた自身であなたの現実そのままで、いきること。

 

じつは、それが、またむずかしいことでもありました。





今の自分にチャネリングすること。

  • 2010.06.11 Friday
  • 22:22
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じょじょに、しなくなってくる

散歩もしなくなってきた。

友達ともあそばなくなってきた。


ホームのボランティアももう潮時だろう。

17年やった。這ってでもいくと思っていたが、そんなものではないことがわかった。


その、ひとつひとつひいてゆくことが、なんとも、すんなりと受け入れられなくて、うだうだしている。

腎機能がおちてゆくのが、まぎれもない私なのだから、うけいれるしかないのに、すんなりとはいかない。

なんとも、じっさいの自分がわからない。わかっても受け入れがたい。

かくあるべき自分というか、自己像があって、それを実際の自分にしてゆく(へんな言い方だ)納得す

ることは、こんなにむずかしいことだとは。

こんなに寝ている自分が受け入れられていない。

友達と会わなくなってきた私をせめている。

疲れる宿命をうけいれたくない。

元気ならばなどと、いじけている。



家のまわりくらい歩いているが、坂がきつくなってきた。

それは、前の自分のペース。

もっともっと、ゆっくりあるけばいいのだ、とおもい、超ゆっくり登った。


今の自分にチャネリングすること。

ゆっくりあるけば、超ゆっくりあるけば、いままでみえなかったものが、見える。





評価に執着しないこと

  • 2010.05.26 Wednesday
  • 22:52
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自分にたいする評価ひとつとってみても、なかなかしぶとくからまっているものです。

私はこのブログ記事をかきはじめるにあたって、自分がするセルフ評価というものをひと

つひとつけずりとっていこ
うとおもいました。

そうして文章もよしとおもった時点で、記事をかきはじめたのですが、まだまだ、残って

います。
それほどしぶとくからまっているものです。

 

他者から自己へのよい評価、いいじゃないかとおもわれるかもしれません。

それはある種の恍惚をともなっています。おおきなよろこびでもあります。

太宰治が「選ばれてあることの恍惚と不安われにあり」と言っているように、恍惚は不安

を抱き合わせです。

私はそんな他からのあれこれで、自分を評価し、恍惚と不安のタンブリングをする気は

ありませんでした。

 

私は、その「すばらしい!」といった評価主義の、欧米からやってきた文化が、暴力的に

浸透していった昭和の年
代に育ちました。

やたらランク付けをし、トップこそが価値があるという、なにか違和感がありながら、その

方向にフィットしていった男
女はいいとしても、私はなにかフィットしにくい既製服を、「か

っこいいじゃん」と押しつけられているようなきがして
なりませんでした。

 

絵をならったことは、おもいがけずに、そこはまったく評価コテコテのせかいだったの

で、そこでもがき、けっきょ
くやめたことは、私自身にちかづいたことでもありました。

 

絵を止めることは、ほんとうにたいへんなことでした。

「絵なんて、やめるものなのかねえ」とよくいわれました。

私にとっては、やめなければならないものだった。

だいたい、ほんとうに絵が好きなら、なんで描くのかなどとかんがえないでしょう。

私は、評価がほしくて、「絵を描く」というふうにいわれたくて、がんばってまよいこんでし

まった路だった。

そこからもどらなければなりませんでした。

 

そのときに、テキストとなったのは「荘子」でした。すがるようなおもいでひらいていました。

なによりも、評価というものからはまったく自由な世界があったのです。

やすらぎをくれました。

荘子の世界は河のながれに浮かんでいるような、無為自然の世界です。

空は無限大に高くなりました。






 

 

果たしてわたしは、井戸を掘るか?

  • 2010.04.25 Sunday
  • 22:35

                                                                                   ムベの花



 

●私が、もし、健康であったなら、アフリカに行って、井戸を掘るよ。

 

○さあどうかな?あなたが健康だったら、きっと、あなたの欲望をかなえようと、アフリカ

に行って、観光地をめぐりお土産を買いまくって、エネルギーをつかっているさ。

 

●病気をしたあと健康になったなら、きっと、井戸を掘るよ

 

○いや、お土産抱えて東奔西走、右往左往するだろうさ。ひとは、どんなことでも忘れ

るからね。

 

病気は、ダメ人間の私には、恩寵だ。

健康がいいに決まっているが、私のように欲が深く、ダメ人間は、せめて、病気で修行で

きるチャンスをいただいた。

 

 

 


人生、楽しむためにある?

  • 2010.04.13 Tuesday
  • 23:04

                                                ヤマブキ



 

聖書に、

お金持ちの男が、イエスに従おうとやってきた。

イエスは言う、「あなたの持っている財産をすべて捨ててきなさい。」

おとこはうつむいて去って行った。

男にはたくさんの財産があったのである。

金持ちが天の国に入るのは、ラクダが針の穴を通るよりむずかしい。

…というのがあった。

 

クリシュナムルティの実践をしていると、私もうつむいてかえってゆきたくなる時がある。

私には命以外の財産はないので、財産云々ということではない。

 

帰って行ったという男の気持ちというのが、財産があってそこでさまざまなかれの欲望を

満たそうとしている、わけ
で、その欲望をみたすことすなわち人生であり、捨てることな

んかできないよ、と。

 

財産があるというのはわかりやすいが、財産が無くたってそれなりに欲望をみたそうとし

ているのが人生ではないか。

愉しんでナンボ、人生楽しむためにある

そんな延長線上に、我が子を虐待し死に至らしめるという事件があるのではないか。

 

クリシュナムルティは、その欲望には必ず苦しみがついてくるという。

一度あじわえば、もう一度と渇望する。

自分を愉しませようと、頭がいっぱいになっている。

それらは自動的に調子よく回って、快と苦を生成している。

 

クリシュナムルティは、欲望を捨てなさいという言い方はしない。

「どうですか?」

「あなたじしんを見なさい。気づくのです。

 

気づけば私は、欲望の自動操縦の車両に乗っかっていることがわかる。

チンケで、しかもガタがきているが、だからといって、その車を降りて、欲望をすててゆく

ことは、ひとつひとつやるにせよ、なかなかむずかしいことだ。

ときおり聖書のなかの、うつむいて去っていった、欲望を捨てきれない男の背中が目に

浮かぶ。

 




 

攻撃心

  • 2010.03.28 Sunday
  • 22:40

                                                              スティックセニョリータ(ブロッコリ)の花




 

 

日本の雀の数が十分の一になっているそうだ。

そういえば、むかしはそこいらじゅうにたくさんいたが、いまはあまりみかけない。

 

学童期に、雑誌かなにかでみた、「雀を捕る方法」を実際やってみたことがあった。

米をまいた上に、籠をさかさまにかぶせ、いっぽうのはしをすこしあけ、棒で支える。

その棒に紐をつけてのばし、はしっこをつかんで物陰で待っている。

しかしこの牧歌的な方式は、待っていてもなかなかは雀が入らないので、容易に挫折した。

 

つぎは、煉瓦を組んで、餌を食べに来た雀が枝にとまると煉瓦がふたをするというものだった。

しかけて、すっかりわすれてしまった薄情な私は、朝おもいだして、「罠」を見にゆくと煉瓦はおちていた。

“やった!”と思った。

そっと重たい煉瓦をあげてみると、ちいさな雀がいて、その瞼は閉じられていた。

私はその灰色の瞼を忘れないだろう。

 

父親は空気銃の登録を更新していた。

「なんで国がそんな銃の使用を認めるの?」と聞くと、

「とくに男はそういう本能があるんだ。へたに禁止するとかえって悪いことがおきる。あるていど認めて解消させるんだ」と言った。

ある日、父が撃ったといって、毛を毟り取った雀の何匹かを七輪で焼いていた。

食べるものがないわけではないのに、なぜたべようとするのか私はまったくわからなかった。

たぶんそれは、“やった!”というような、その心の結果だった。

 

父は、ちいさくて食べるところもないといい、それはあまりにちいさくて哀れだった。

母はなんといったのか、それからしばらくして、空気銃を国に返納した。

 

いまも期間をきめて猟銃の使用を、国は認めている。

撃たれてしまうかわいそうな鳥たちは、人間の攻撃性の発散のために死んでくれている。

 

進化の地層のように、人間の脳には爬虫類の脳といわれる脳幹がある。

認知症がすすんだり、大脳皮質が衰えてくると、攻撃的な言動が出てくるケースを、たしかに、ホームで私は見てきた。

そうでなくとも、自己の安全が脅かされそうになると、スイッチが入る。

私もそうなる可能性を秘めている。

 

私たちは、脳のなかに「青あざ」のように攻撃心をひそませている。

 






わたしはできるhazu

  • 2010.03.26 Friday
  • 22:42





 

「わたしはできるはずだ

「わたしはいまはできないが、いつかはできる

 

たとえば、評価主義(達成主義)ひとつとっても、私のからだのおくふかく組み込まれていて、これを取り外すのには長い期間を要した。

その源流はやはり学校だ。

 

学校は、敗戦後のおっつけ民主主義ではあったが、日本国員養成学校には変わりは無かった。

学校では、固定されていること(国家検定を通った教科書)をつめこまれる訓練をされた。

 

そして、怒りとともにおもいだすのは、ただただ、試験試験、…

九九をどう暗記するか、漢字をどうしたら憶えられるかとかいう学習は無く、

ただ「宿題です。憶えてきなさい。明日試験があります」。

 

授業では、教科書を読みあげて、あとは試験。

 

教師は、よくできる子や、自分で予習復習する子は世話が無いのでお気に入り

出来ない子には、そのまま、もう一回追試をさせる

世話のかかる子は、かといって世話をしないので、落ちこぼしてゆく

教科書読み→試験→評価・ランク付けというのが学校だった。

 

教えというものはあっただろうか?

学ぶことの方法はおろか、考える習慣とその方法、ディスカッションしながら自分の意見をいう訓練、学ぶ楽しさなどは(私の場合は)教えてはもらえなかった。

詰め込み教育というが、ろくに詰め込んでさえくれなかった。ただテストテスト。

ほんらい教育段階のテストは×に意味があり、わからないところがわかるということではないだろうか。

それを、ただ点数で評価して、比較して、絵ですら五重丸とかのランク付け―それが学校だった。

 

生徒たちが、おなじように自分を評価し、仲間を比較してゆく。

差別まではすぐだ

差別はイジメを生む

 

 

そんなふうに馴致されてきて、比較評価ランク付けというドライブがインストールされているから、機械的に自分でじぶんを評価し、比較してよろこんだり落ち込んだり。

私自身、よくあらずんば人にあらず、であるから、自分が落ちると、さっそく自己否定がはじまって、ウツまで落ちる。

そうならないために、なにげにがんばっちゃう人生を歩んできた。

私、とっても評価にんげんでした。

自分は特別であり、良い人間であり、やればできるはずの人間だった。

「無理」は日常茶飯事。

「ウソツキ」、「ごまかし」数え切れず。

ざんねんながら、なかなかそれを脱することはむずかしい。

せめて、気づくことをかさねてゆくほかない。

 

今でも、ほどほど誉められたいし、

こんな拙い文章を書いていても、やはり良く書きたいと思っている自分がいる。

「良い」とはいったい何?

 

なんのかのとおもっても、自分以外のものができるわけがなく、でも、自分以上のものが書きたい。

 

自分以上とは「自分以外になること」であるので、それは、(私がねちねち怒っている)学校の方向に戻っているのだ。






 

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