「覆われている」という感触

  • 2013.11.02 Saturday
  • 13:17
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『瞑想』 (MEDITATIONS)   クリシュナムルティ


再び手に取って。

あらためて、一字一句一章、理会できることに驚き。

4年前に手に取ったときは、なにを言っているのかわからなかった。

読み手がゴミゴミしていて到達できなかったのだろう。

 

読み手が変った、と思った。

よけいな夾雑物が落ちたような感触。

覆いがとれ、風が通った。

ほんとうに、世界は、静であり、明るく、美しい。


 

「わたしはなにも気にしない」

  • 2013.10.20 Sunday
  • 14:31

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インドアーリアというのは地球上一番美しいと、どこかに書いてあった。

クリシュナムルティはインドの人で、神智学協会にスカウトされ(さらわれて)西欧(上流)社会の中で教育されてきたのだが、肌の色などを気にする箇所もあった。

インド人であることもさることながら、その精神性のもたらす美貌で、写真も多い。

その写真をみていて、なにかこの憂鬱なかんじというものが、ナンなんだろうとひっかかっていた。

スピリチュアル系のひとは概して穏やかなかんじがするので、Kの秋霜烈日なかんじはなんなんだろう?と。

私自身、その人の思想に近づくとき、この人間の悪、とくに戦争についてなんと言っているのか、踏み絵のような気持ちで読み進む傾向がある。
そのひとが善悪を分けていたりすると、そこで引き返したこともあった。

Kは、人は=全体であり、このよの悪は、ひとりひとり―あなたが、していることで、戦争、残忍な殺人、も、あなたもしているのだ。と言っている意味がようやくわかったのだが、そのような考え方こそ読むものにとってきびしくも真実のベースになった。

Kは、「この世は暗黒です。」と、デビット・ボームとの対談ではっきり言っている。

これを『時間の終焉』のなかにみたとき、ひとつ覆いがとれたような気がした。

泥団子を餅だと言い含められ、餅だと信じて食ってきたが、それは餅ではなかった。泥のあじわいもなかなかオツだったが、ときにはおちこんだりしていた。

ひとびとは餅だよと言ったり、そんなことはどうでもいいと暮らしていた。

餅は泥です。ということをはっきり言っていたのはKだった。

――この世は、暗黒です。

その憂鬱そうな風貌も相俟っていた。

暗黒も泥団子も、人間のしていること。

 

このよのことは、すべて、たいしたことはない。――エックハルト・トール

 

わたしはなにも気にしない――クリシュナムルティ

 


超物質

  • 2013.02.23 Saturday
  • 22:02
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この前、TVでビッグバンの番組をみた。

もう、物質なんか無いって言ってるんですね。
E(エネルギー)=M(質量)×C(光速)2乗 ということは物質はすなわちエネルギーだということでいいんでしょうか?

 

137億年前ビッグバンで爆発し、膨張しつづける宇宙にのっかっているのだとイメージしてみる。

乗っかっているというか、膨張しているそのものなのだと…。

膨張というのは、進化することだろうか?

 

人間は発生した時から胎内で、また誕生した地上で、生命46億年の進化の過程を繰り返してゆく。

身体のほうは、20歳あたりまでには止まるが、精神spiritのほうは個人に預けられる。

それが止まってしまっていいはずがない。

 

 

〚一万年の旅路〛によく書かれていたが、人類は、壁にぶつかっては工夫し、知恵をグレードアップさせながらそれを越えてきた。

そこの困難を越えることが進化につながってゆく。

生命進化の最先端を行く人類は、知恵=脳を発達させ、知恵と工夫を柔軟に駆使して目の前の問題を解決してきた。

そのおおきな発明は、時間と言葉(概念)だと思う。

過去のデータを未来にむけて検討し現在に適用する。

そうやって爆発的に繁栄している。

いっぽう思考=エゴを原動力とする思考は、過去にこだわり、未来に向けて恐怖や不安をつくりだし、それ(思考=時間+言葉)がとりとめなく苛む。

 

「人類は間違った方向へ進化してきたのではないでしょうか?」とkrishnamurtiは〚Ending of Time〛(時間の終焉)で言う。

あきらかに頭がよいこと―知恵にすぐれて、繁栄し地球の覇者になったが、一方エゴも肥大しそれが悪しき方向へ膨張する。

人類はそうやって心理的にはまったくよくない方向に来てしまっていて現にこれ以上身動きがとれないでいる。

かりに英明な政治が布かれたとしても、人人の心が変わらなければ、いままでそうだったように、抜け道から腐ってくる。

人人は、土に、食い物に、金に、命に、自分に、執着し、葛藤し…、ゆえに不安、恐怖にかられ…そして今でも戦争が絶えない。

 

最近では、エックハルト・トールをはじめ、ディーパック・チョプラや…だいぶそういうひとのいう言葉を散見するようになった。

「スピリチュアル」という言葉は、なにか現世の垢がつきすぎているが、ここでひとつ垢を振り落として使ってみたい。

 

 

やがて、ひとりひとりが変容をとげることで、あたらしい進化の相にはいっていけるのではないか。そんな予感がするのは私だけだろうか?

社会はそうすることで変わる…変わってほしい。

ひとり、またひとりが変わり、変容をとげ、気がつくと戦争はなくなっていた、という夢をみる…

人類が地球に存在するうちに。

あるいは絶滅か。
放射能や化学物質に強い身体をもち、繁殖力のつよい人間かゴキブリが生き残るか。

しかしそのようなことは、あまり問題ではないようなきもする。

宇宙は、あるようにあるだろう。

 

宇宙には物質の世界があるのだから、反物質の世界もあるのではないだろうか?

…それはたとえば、Kが「ground」(基底)というような、なにか。

物質ではない―霊的ななにかは、たしかに存在する。

私はkrishnamurtiを読んで、「なにか」を確信した。

それは最大級のミステリーで、と同時に真実だった。

 

Kは、「それ」を、ground と言ったが、そのほかのスピリチュアル人はなんと書いているのか、興味がある。



「変容したひとはいませんでした。しかし、種は蒔きました」

  • 2011.09.08 Thursday
  • 23:20
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 krishnamurtiは最後の最後まで対話をし続けました。

「選ばれた」。(という言い方は、「選んだ」主語が問題ですがそれはともかく)人類のためにできることをしたという意味で、使命だったとおもいます。

 

Kの学びが深まれば、言葉のない、沈黙の世界にはいってゆくような気がしていますが、どうでしょうか、やはり言葉は無くなることはないと思います。

人類が霊長類にまで進化してきたのは、やはり言葉というものが大きく関与しているとおもいます。

 

 

私は論理をあやつることは苦手ですし好みませんので、破綻した文章しか書けません。
データもあやふや、数字もわかりません。そんなではありますが、なにかを感じ取ってくださればと願い、書いています。
森の写真も言葉なきメッセージです。

 

 

私の仕事は、二人と一匹の食事がかり。作るのも食べるのも好きなので気に入っています。
なにやら低めに設定しているような気がしないでもないですが。ま、できることはこのへんです。

 

 

このブログは長くなりましたが、最初のほうからみてみると、筆者は変わってきていることに気づかれたかたもおいでだとおもいます。
恥も外聞も無く変節するヒトです。

 

Krishnamurtiにであって3年になりますが、私は変わりました。

私は読むことしができないデクノボーですから、たくさんの本を読んできましたが、その経験はKに出会う基本だったとおもいました。Kは論理でやってくるのです。

 

Kに出会ったら変わらずにはおれない。

私が葛藤だらけでエネルギーを浪費していたこと、自己を苛む欲望と暴力のメカニズム、「私とあなた」「人間とその他」などの分離などに気づくことができ、宇宙は一つ、静謐やってくるエネルギーとすでにみちている愛に気づくことができました。

 

なかなかその本質は私ごときの筆力では書けませんし、その学びは単純にして、難解です。

難解なのは私たちの脳がすでにコンピューターのようにプログラムされているからです。Kはまず、そのプログラムそのもので動いている自分に気づくことを言っています。

 


興味をかんじられたら是非本を読んでいただきたいとおもいます。

私が最初に手にしたKの<自我の終焉>の副題に、絶対自由への道とあり、はっきりいうなあ!ほんとならすごいぞと、わくわくしたことを忘れられません。
じっさいすごい本でした。「絶対自由」の意味もわかりました。

 

講話・対話が編集されたDVDも発売されました。これはおすすめです。

<神話と伝統を超えて> 

 

Krishnamurtiは、本源的変容をありえないくらいのパワーで話してきたのですが、その生が終わるころ、「変容」したひとはいますか?と言う問いに、

「いませんでした。」と答えました。

しかし、「種は蒔きました」と。

種を発芽させ、繁らせるには、さまざまな自然の力が係わります。

そして、纏っている余計なエゴや思考をみつめ、そして残る(出現する)空に発芽してくるものだとおもいます。

 

 

あなたが何も知らない向こう岸、理知にたけた思考によっては補足できない別の次元から歩き始めてみなさい。            ―――krishnamurti

 

 

すべての行為はそこから生まれる

  • 2011.08.28 Sunday
  • 21:59
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<時間の終焉>のなかで、

「人間は進路を間違えたのだろうか」とクリシュナムルティは始め、量子物理学者デビット・ボームは、

「そうですね、大昔に人間は間違えたに違いないと思います」と、対話がつづいてゆきます。

 

 

生物は生存のために進化してきた。

さまざまな意匠をこらし変わってきた。

そんな生存と継続のための弱肉強食の世界から、人間は霊長類とよばれるような種になってきて、異色の進化をとげる可能性をゲットしたが、いかんせん、弱肉強食はいまだにおこなわれていて、しかもふくれあがった脳はたくみにシステムをつくりあげる、寧ろ巧妙な弱肉強食がシステム化している。

人類は道を間違えたにちがいないと思わざるを得ない。

 

 

対話の中で、その原因は「なることです」というくだりがある。

なにか自分以外のものになろうとする。自分以上のものになろうとする。

 

 

私が生きてきた時代、「ありのままでいい」という人はあまりいなかった。
世界中が、「このままではダメだ、進歩しなければ!」という潮流だった。
「進歩しなくちゃあ!」ということばが、勢いをもってあった。
私自身、このままではダメで、人間は進歩しなければならず、もっともっとよりよき…のために努力しなければならない、と団塊のおじさんおばさんは生きてきたものだ。
あげくこんな放射能まみれの地球になってしまった。

 

 

思考(脳)が「なろう」ということは、まずは現実の不備があり、現実の否定がある―「そのままじゃダメだ」という。

「なろう」とすること、それは脳の原動力であるエゴの行使であり、それ(エゴ)には当然限界があり、不完全だ。

自己中心ゆえ分離があり、差別を行使する。都合のよいように考える。誤魔化す。富を手にし、守るため、増やすために戦争をする(させる)。

 

たしかに脳はまずは自分を守り、継続させ、豊かにさせ、向上させるようにがんばって、進化してきた。

ひとつには、技術などの進歩があり、たとえば「牛車からジェット機へ」とkrishnamurtiはよくいうが、そのような技術的進歩については「後退はできない」と吉本隆明は言っていた。進むしかない。私もそう思う。
緑の地球を持続させるために技術は進歩して欲しい。

 

そのような技術的な進歩ではなく、心理的な進歩について、それ(進歩)は無いと。

心理的には人類はみな同じであり、しかも進歩していないとこの会話でも言っている。

 

代々できあがった脳の思考回路そのものによって教育し教育され、自動的に生きてしまっているのではないか?

 

マダラメ委員長が(放射性廃棄物処理―といっても埋めとくだけ―の候補地は金を??億積めば楽勝さ)「けっきょく世の中、お金でしょ?」と思い込んでおられるのも固定した思考だ。

 


自分に眼をむけてみよう。

つねに過去のデータで、既成の思考回路で反応していないか?

 

私はkrishnamurtiを学んですぐ体験したのだが、自分の思考回路そのものに気づくことで、不思議なことにその思考は消えてゆく。

そのことをくりかえしてゆけば、その回路そのものも衰弱してゆく―これはKも、Kを学ぶひとたちも言っていることです、そして私もわかりはじめてきました。

 

「私」のない、自我の声のない、思考の無い、静寂とは?


何かを捨てるという問題ではなく、この二つのもの――愛と、思考が空になった心――があるだけです。」

 

「この二つのものと交感していれば、すべての行為はそこから生まれることでしょう。」

                      ―クリシュナムルティ対話集「自己の変容」  

 


すべての行為はそこから生まれる


なんとちからづよい言葉だろう!じつにそうなのだ、ということがわかってきた。

しかし、思考というものにのっとられていると「そこ」とその風にも気がつかない。





 


<時間の終焉>

  • 2011.08.26 Friday
  • 23:22
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<時間の終焉>“The Ending of Time”は、ジドゥ・クリシュナムルティと量子物理学者デビット・ボームの対話で、その日本語訳がやっと出ました。
待ちに待っていました。
どうしても日本語訳が必要な私などは、有志が訳したものをコピーして読んでいました。

今回、渡辺充さんの訳がでて、すぐ購入しました。

とても読み応えがありました。じつに面白かった。

 

Kは明快な論理でとてもシンプルなことを言っているのですが、その内容はとても難解です。それは読むほうの心がおおわれているからです。

 

<時間の終焉>を読むと、「そうだったのか。それだったのか!」Kの言っていることを読み解く鍵を得たようなきがして、Kの本全部読み返したくなりました。

 

かといって、わたしごときがそれについて話すのは困難であることには変わりありません。
内容が、今まで無意識に使用していた思考回路を超える話であるのですが、私は古びた作文回路を使って書くものですから、追いつくはずがありません。

 

ほんとうにKを理解したら、言葉も表現も生き方も変わってゆくと思います。

Kの学びは、今の人間を1mmも動かさず一瞬で天文学的に超えるところがあります。

 

難解ですが、krishnamurtiは、どんな質問にも丁寧に閃光のように答えています。

相手に応じて、“Do you understand?” “You follow this?” 

…と、たびたび気遣いながら話しています。

 

最近やっと、Kの言葉がすんなり入ってくるようになってきました。

 

<時間の終焉>をまた、こんどは線引き書き込みしながら読んでみるのも楽しみです。





「なぜ、それを生きてみようとは思わないのですか?」

  • 2011.07.27 Wednesday
  • 22:12
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なにができなくなったって、なにがどうであれ、生きているかぎり生きてゆく。死まで生きてゆく、それだけがある。

進んだ病状にもなれてゆくだろう、ひとはどんなものにも慣れるとだれか言っていた(ルナール?)

どうやっていきてゆくもんだろうか?どのように終わりがくるのだろうか?などとぼやぼやおもいながら……
しかしそんなことを思い煩うことは無い。

ドキュ「二本の木」で、奥さんはガンの痛みに「耐えがたい」と応え、「24時間睡眠」という処置をしてもらった。いわゆる安楽死だ。もう日本でもやっているのか、それとも聖**病院でだけなのか。モルヒネを使用していたら、24時間睡眠(安楽死)までは一歩だ。しかし現在はその一歩が大きい。


krishnamurti
が、もしガンになり治療不可能で自殺をしても、と聞く人に、

なぜ、それを生きてみようとは思わないのですか?」と言っている。(自己の変容)

母の尿毒症による錯乱した悲惨な最期をみている。

たとえ尿毒症で七転八倒して死ぬとしても、それを生きることしかないのだ。

不安と恐怖を見つめ、勇気さえあれば。
安楽死など考えた私が馬鹿だった。


「いい」から生きる、元気だからできる、幸福を求めて、などという考え方そのものが、おかしいよ。

たとえ、どんな状況でも、まず食う、そして寝る、その繰り返しのなかで、
「どんな状況でも生きてみよう」そういう無垢な位置。

たとえば、なにも出来ないとしても、「捨てる」、という作業だけは、残されている。こんな私にも。たぶん最後の最後まで。ハハ、愉快だ。



ほんとうにひつようなことは、やってくる。

  • 2011.07.24 Sunday
  • 21:54
2011.7月 006.jpg オカトラノオ

エプロン―紐が背中でクロスする、あこがれのスタイル。「のこった憧れ」をかなえてやっている…らしい。

出来あがって、似合わんこと判明。そうだよなあ、あこがれをかなえてやって、それいじょうだったというのはあまり無い。幻滅のほうが多い。

だいたいが、自分には似合わないか必要ない。いつまでもかなえられないことには理由があるのだ。

 

いままでふりかえって、無理(むり)げに、がんばってやったことは、それ自体辛い作業だったし、結果は幻滅、というのが多い


それに比べて、ちからを抜いて、自然な選択をしてきたことは、なにか私がした(選択した)のではないなにか、という感覚がある。

選択したというより、ながれに乗ったように思える。

ことに大切な人生の選択は、おもわず『天の声』に耳を澄ましてはいませんか?
反対に、そこで自分の判断で強引にねじふせたりしていったものは、だいたい失敗している。

 

あこがれとは、それ(対象)によって自分を輝かそうとする、自己の欠乏でありそれをうめようとする欲望だ。

憧れにふくれあがり、それをかなえるために人生はある、と思っていたわかいころ。

そしてエネルギーの大部分をその実現についやしてしまった。

 

憧れを追い求めずとも、ほんとうにひつようなことは、やってくる。

むしろそれ(=自我)の無いところに、やってくるものがあって、わたしたちはいきている。


Krishnamurti
は、(どうするのかは)「『英知』が教えてくれるのです」と言っている。

 

そこに流れをさえぎる石はありません。」とも。









ただ観る・ただ聴く・ただ在る

  • 2010.11.06 Saturday
  • 23:20
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日常の「階段」を一歩一歩のぼりながら、至高の瞬間がやってくることがある。

 

永遠の隙間をのぞいたような瞬間―とでもいうか。

 

それは「神秘体験」などという特別なものではないが、ほんとうはベーシックなもの―といえる。

 

 

世界の混沌をこんとんのままうけいれることでもある。

 

それは、私自身が変わる、というか、なにかおもくて依存していたもの―自動操縦装置のよう

 

なものをいちまいでも脱いだ時、そんなことが起きる。

 

思考していないスポットなのか。

 

 

かつて、まだとても幼いころ、そんな瞬間の流れの中にいきていたような気がするが、ほとん

 

ど憶えていない。

 

たとえば木が木という名前以前の圧倒する世界だったような。

 

成長するにしたがって言葉(概念)が埋め尽くし、そんな世界を失くしていった。

 

 

家の前にはムクの大木があった。

 

ケヤキににているのだが、ケヤキのように枝を垂直方向にのばすのではなく、その枝は横に

 

伸びて地を抱くようにして広がっていた。

 

私はかまわれない子だったので、その枝の葉をよくながめてすごしていた。

 

「ああ」、とこころが動くが、ことばはでなかった。

 

そうか、これをことばであらわすと詩になり、線や色で表すと絵になるんだなとおもった。

 

そうしなければ、ただ「ああ」では何の意味もないと思った。

 

なにかに表して(転換させ)こそ、生きてゆくいみがあるのだとおもった。詩人になったり、絵

 

描きになったりする努力をすること…。

 

長じて私はその美をことばで表してみたし、絵でもあらわすことに熱中したが、いくらやっても

 

やればやるほど遠ざかり、私はなにをやっているのかとおもった。

 

私はその美を侮辱しているとおもった。

 

 

 

クリシュナムルティは、思考というものを脱落させることをいう。

 

人の苦しみ悲しみ葛藤は思考のすることだ。

 

思考はたえまなく渦巻く瀬のようだ。

 

人は思考に乗っ取られていることすらきづいていない。

 

私は、思考(自我)こそ自己だとおもっていた。

 

 

思考は、人間のイメージ、概念、思い込み(=過去のデータ)などなどで、欲望(自己中心)な

 

どを原動力にして永久運動をしている。

 

瞑想をしてみると、たえないおしゃべりをくりかえしていることがわかる。

 

その思考をやめることは、ものすごくむずかしいことで、知れば知るほどむずかしさがわか

 

る。

 

思考をやめようとおもうことも思考だからだ。

 

そもそも思考(自我)がなくなったら、「自分」がなくなってしまうではないか?

 

 

せめて、思考の内容に目をやり動きを知り(気づく)、思考と思考の隙間というところに、なに

 

かあたらしいなにかがあることが、すこしだがみえてきた。

 

あいまに、ふと木々にめをやると、そこには、ただ木があり、それだけの圧倒する美であり、

 

私は、思考のことばに、生粋の木を、そして自分自身を塗れさせていたことに気づく。







 

 

 

蛇足

  • 2010.08.24 Tuesday
  • 22:24
 

クリシュナムティは、シンプルなのですが難解です。

その一部分でも、なんとか書こうとはおもっているが、理論話は苦手なので、私自身の体験から話すのが一番合っているとおもう。

それにしても、昨日の記事はちょっとむずかしいというご意見もあって、さもありなん、私の説明下手で、少々補足をしてみたいと、書いてみますが、もっとへんてこりんになる可能性大。

 

たとえば、

日常生活で、怒りの感情が湧いてくる

または、いやだなあ!とおもう

そんなとき、

なんでだろう?なんでだろう?なでだなんでだろう?とその原因をさぐります

原因は、相手か、私自身か

相手のどんなところがわるいのか

自分のなにがこだわっているのか

相手がわるいとおもえば反撃か、または注意をうながす、またはなにもしないとか

自分ならば、内的に処理か、感受性が鋭すぎなので、感度をさげようとかなんとか

 

そういうすべては、自我を強化してしまう。(と、クリシュナムティは言う。)

自我とはエゴですね。

つまりじぶんが都合のよいように処理して、今後にそなえるというわけです。

 

そなえあれば憂いなしではありません。もっともっと憂いは増大してゆくのです。

仮想敵国

過剰防衛

ますます、暴力的になってゆく。

自分をへこませて(我慢して)いることも、ひとつのじぶんへの暴力です。

どちらにせよ、葛藤のなかで、苦悩に塗れてゆくというわけです。

そういうのではなく、

「ああ、いまいやだとおもっているな」

「お、いま怒っているわ」

という言葉さえなく、

「ああ、」

「お、」ぐらいで、自分をみつめてみる

自分へのやわらかなつつむような注視―批判も評価も無く―をする

それは一瞬のことのようなきがします。

 

その一瞬は過ぎ、それを繰り返していると、ある日ある時ふっと、

それ(怒りや厭悪)が無くなっているのに気がつきます。

そして、いつか、怒らない自分、厭だと思っていない自分に出会います。

それを、私はたしかに体験しました。(クリシュナムティの言うとおりでした。)

 

私は人一倍怒り狂い、厭だなあと思うことがつもっていました。

そういうにんげんこそ、そこを「含んで越える」(K・ウィルバー)ことがで   

きるのだと、これも実感です。








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