孤立したようにみえる自己

  • 2012.01.05 Thursday
  • 22:44
朝焼け.jpg 


わたしたちは、ふつうに育っていけば、程度の差はありますが、永遠に変わらず、それだけで存在し、しかもバラバラで孤立したようにみえる「わたし」を形成します。

p73 羽矢辰夫『ゴータマ・ブッダのメッセージ』より

 



人間世界というものを、人体に置き換えてかんがえていたときがありました。

人間ひとりひとりは、人体の細胞ひとつ、それがおのおのの役目をして、死滅、生成と繰り返しながら、ひとつの有機体である…

そして、私はどこのなにをする細胞なのか?思いをはせたものです。

 

私は岡野守也氏の仏教関連の本を読んで、はじめて「分離している」ということを知りました。
また、瞑想をすこしばかりやって、宇宙の一体感というか自分が溶け出したような実体験をしたことがあり、「ああ、分離している、しているように感じている」と思いました。

 

分離、それは分断でありますし、自分をも他から分離させるものです。

自我そのものが分断された自己そのものです。
それがあたりまえになっていて、本来は一体なのだという考えに慣れるのに時間がかかります。

そして個々が上にあがろうと右往左往しているのです。
登ったものは喜びであるでしょうが、落ちることも込みなので(二元論)苦しみになります。

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を思い出しました。
あれは地獄から這い上がろうとする者たちですが、地獄とはこの世の事だったようです。

 


生命体という言葉がいわれます。

みなおのおのがその仕事をし、つながっている、一体だと思う心に、障害は、おのおののエゴではないでしょうか?




人間ひとりひとりの暴力性

  • 2011.12.18 Sunday
  • 21:31
2011.12月 002.jpg興津のちいさな港

 

 

民を戦場に送った戦時の政府と変わらない。

私は変わったとおもっていた…議会制民主主義が布かれたのだから。

原発は安全だと思っていた…あんなにラッパをふくのだから。

みんなみんなそう思いたいからそうおもっていただけだ。

 

原発事故は収束した?つくづく、民を守らない、見殺しにする国だ。

戦争をしていたころとオーバーラップする。

あのころから政治はちっともよくなっていない。国家の体をなしていないよ。

チェルノブイリで、即3000台のバスをだして避難させたロシア。

日本は、データを隠し、バスも出さず、ヨウ素剤ものまさず、SPEEDIで、飯館村に流れたのはわかっていながらそこへ避難した(!)人人をみすみす被曝させた。

放射能は染色体のくさりを断裂させるそうです。

何年か経って、症状がでてきてガンになったり死んだりしたひとがでても証明されないというのだろう。

 

さきの戦争で300万人が死んでも、立ち直り経済成長をとげる、ある意味すごい国だとおもうが、誰も責任をとらず(東京裁判で戦勝国からとらされた以外)無きもののようにしてにして歴史を流した。

 

考えてみれば、政治というのは、古今東西だいたい似ている。

特定の階層が豊かに、もっと豊かにと財をきづき、権力を行使するために機能している。

世界中が、権力をもってうごかせるひとたちが、戦争ごっこをやっている。

民は搾取の対象だ。搾取もあからさまにはできなくなったので、主権在民などと唱って、しっかりとるものは取る。

 

私たちは、家で、学校で、社会で、二元論(善悪・上下・優劣・…)を叩き込まれる。

理想を抱かせられる。あたかも「よい社会」というものがあるかのように。

人間にしても、「いろいろあるけれどいいところもある」という文脈で、結果安心などしているのだ。

新聞も、さまざまな人間のなすことを羅列しているけれど、その文脈は、希望、そして理想だ。

私などは学校脳、新聞脳になっていたので、こんな暗黒であっても、希望はあるという思考パターンができあがっていたのですね。

だから、きっとよい社会はできるんだと希望をもっていて。

 

今更政府がダメだといったって、むかしからかわってないよ。

戦争をしたし、原発を林立させたし、いまもまたごまかし、責任逃れ。こんな大事なときに。

ちいさいいのち、その被曝の感受性の高いといわれる子どもたちをまもろうと、政府、東電がなにかしたか?

被曝の基準を法律破って上げまくっただけだ。

そんなもんだろう、政治は。と私などは思うよ。

 

人間のエゴで作ったバベルの塔では、そのなすところ、行使するものは、暴力にほかならない。

人間ひとりひとりの暴力性というものが、ひいてはこのような社会を作った。

と、krishnamurtiは言う。

だから、ひとりひとりが変われば、社会も変わると。

 

パンドラの箱はもう神話時代から開けられてしまっている。

それがぶちまけられた現在の地球に、ちいさな希望と言う名の羽音は、このへんにかすかに聞こえるのですが、いかがでしょう?

 

 

 

 

 

 

 


「よい人」をすることのワナ

  • 2011.11.16 Wednesday
  • 21:53
2011.10月 017.jpg




■そのひとの気に入るようにやってるわけじゃないが、


   がっかりさせたくないので、なにげに頑張っちゃう。

 



■尊重されることの快感の中にいて、あいてに合わせている…

 


■あるいは、喜んでくれることがうれしくて、ますますあいてにあわせる…

 


■いい人だよ。

 


■「相手のためを思ってやっている、よい自分」というイメージが心地よい存在理由をくれる…

 

 

■そうやって、相手に合わせようと行動する自己愛のなかで、自分がほんとうにしたいことがわ

   からなくなってゆく。

 





泥んこ人間

  • 2011.02.12 Saturday
  • 22:47
yuki.jpg


 

こうして書いてきましたが、つくづく、私というやつは欲望はしぶとく、それをかなえてやることに歯止めがあまり無い人間だった。(かなえられたという意味ではありません)

自分のちからで人生をドライブ、乗り切っていると思い込んでいた、すなわちエゴのカタマリ。

幻想のmy地球をうごかしているのは自分だと思わんばかりのいきおいで。

だって私がしなければ、一歩出さなければ、力をつくさなければ、だれもなんにもしてくれないもん、というわけで、、まあそれはひとつ私のシンリではあった。

 

古いアルバムに数枚の写真がある。

九十九里浜の砂とたわむれるひとりの少女…じつは一族郎党の墓参りのあと、みんなで海を見ようと出かけた砂浜…私だけがパンツ一丁で砂とあそんでいる。

薄ら寒い秋か春のことだった。誰もいない海。

いくつぐらいだったか、小学校くらいだったか、

苦笑や憫笑の中、写真に凝っていた兄が面白がって激写したものだ。

痩せた裸にあばら骨が浮き出て、パンツは母の手づくりで、晒がからだにはりついていた。

私はどこにも連れて行ってはもらえなかったので、せっかくのにきたというので、寒かろうが、なんだろうが、パンツいがいの服を脱いでしまうコだった。

これをみると、なんか哀しくなる。

 

特に行動的な子供だったようにはおもえない。

家にいることが多かった。暇をもてあまし、仕方なしに本を読んだ。

わたしがしなければ、なにもうごかないというかんじはつねにあった。

だれも、神様さえも、なにもしてくれない。

自分が一歩ださなければ…世界は石灰化してゆく。

 

学校で行った海や山に魅了され、特に山にひとりでゆくことになる。

自分がやらなければ…。

 

 

わたしはまた感情にこだわった。

自分の中の、憧憬、怒り、好意、憎悪、…

ヒマにまかせて、それらを目の前に置き、こねくりまわした。

どうも人々がやっているらしい「みないようにして流す」ということは、むしろ邪道だという気がした。

小学校時分から、「誤魔化さず、(こだわ)らなければいけないのだ」という信念のもとに、兄に勧められた日記に、ありのままの自分を書き綴った。けっこう快感だった。

 

いまは、それを越えようとしている。

それをしたから越えられる。

それを生きなければ、それを越えられないんだ。

 

やはり私は「泥んこから這い上がってゆく人間」として生を受けた。




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カテゴリは、哲学>人間・生命 にきめ、バナーをはりましたが、このテンプレートを選択しましたら、バナーがかくれてしまいました。まあそれでも私本人が毎日ワンクリックするだけで、けっこう見つけやすいところ(順位)にいるものですから、そのままにしておりました。

 

その、バナーを、探し出してくださって、クリックしてくださる方がおられます。どなたかはぞんじませんが、ありがたいことです。ここで、お礼をもうしあげます。

 

クリックしてくださる方が「探さなくても」クリックできるように、これから、できるだけ、表にバナーを貼りたいと思いました
 


こころを歪ませる葛藤

  • 2011.02.07 Monday
  • 23:01
2011.1月 012.jpg


目が覚めたとたん、脳はまわりだすのがわかる。

それはたぶん睡眠中も夢として回っていたのだろうがあまり記憶はない。

「おきなくては…いやもうすこし…いいんだまだ大丈夫…

交渉したりなだめたりがはじまる

ちょっとみてみても、ほんとうによく「おしゃべり」をしていて、その中心原理は自己愛なのだ。

脳は甘い親のように、じぶんを守るためにあくせくしている。

逃避したり、いいわけをつくったり。

よくやっているのは、自分に都合のいいように物事を受け取っていることだ。

それがそうでないとわかると怒りがとってかわる。

あまりにもたゆみなくそれをやっているので、それこそ自分であり、それこそが人生のように思っていた。

 

そうやって脳はなんだかんだと葛藤し、くたくたになってしまう。

自我を守るために余計な葛藤をして、エネルギーを使いはたしてしまう。

 

 

ですから私たちは、きわめて敏感で活動的で完璧な機械のように働くはずの道具を、若いうちから徐々に麻痺させ、破壊しているのです。それだけでなく、二十年、三十年、八十年ものあいだ絶え間なく闘い、抵抗してきた心というものがあります。こころは感情的にも知的にも、矛盾と葛藤しか知りません。どのような形の葛藤も、心を歪ませるだけでなく、破壊をともないます。したがって、これらが衰弱の内的・外的な基本原因―孤立化の作用をともない、はてしない自己中心的活動―です。

 

――自殺P92) <自己の変容>クリシュナムルティ対話録  松本恵一訳

 

 

そんな無駄なエネルギーをみつめてきたが、いくぶん最近はあまり変な疲れ方をしなくなった。

私はいま、数値はゆるやかに順調にわるくなっていることにはかわりなく、動くと、えらくつかれてしまうのは今までどおりで、あちこち故障してきている。

しかし、ふしぎなことに、<元気>になってきている。

できないことはできないでいいし、余計なことを考えなくなった。
疲れにいちいち落ち込まなくなった。

 

たぶん「無駄なエネルギー」を使わなくなってきたからではないか。

 

なんと無駄なことにエネルギーをつかっていたことだろう!

ちょっと自分をみてみればわかる。

たあいないことをくねくねくねくね葛藤しているのが脳だ。

自己のために。もっとも自己のために!

それがなぜ無駄かというと、守ろうとする「自己」などというものは無いからだ。






他を優先する?

  • 2010.12.19 Sunday
  • 22:18
2010.11月 014.jpg

「他を優先する」ということを最近考えました。


全体は一つで、わたしたち個々も、本来一つなのだから、私も相手もなんら変わりがない。

そのうえで、人はまず自分を大切にする責任がある。

自分というものが与えられた範囲であり、自分の面倒をみる仕事がある。

他を優先するということは、優先する余裕があるときであって、自己犠牲はケアすべき自分をないがしろにする行為だ。結果としては、むしろ相手をきずつけてしまうことが多い。

たとえばすこしへこんでうけたとするとそのへこんだ部分だけ痛んで、しまいには反作用で内的に暴発するか、おもいもせぬ攻撃を相手にしてしまうかもしれない。

無理をしてひきうけると、報いは?代償は?などと考えはじめる。

まず、自分の面倒をみること。

その上で、余力でするのではないだろうか。


頼まれて、できなければ断っていけないことがどうしてあろうか?

自分の都合で断って正解だと思う。

断らないというのは、断れないということである場合もあり、日本的文化の中ではなかなか訓練できなかったことでもあり、私たちは断るのが下手だ。

 

相手を優先するのが「いい人」ならば、私は「いい人」にはもうなれない。

「いい人」はいつかはさまざまなかたちで???になる。

わたしがそうだったから。

 

自分の面倒はすでにみれて、無心で相手のことを優先して行いたいものですが、今生では無理でしょう。次があるならまずは基本の健康体を発注しときます。

 





 

エゴをただ見る

  • 2010.10.17 Sunday
  • 17:28
2009,10月 大木.jpg


エゴ(自我)を消そうとすれば、エゴを強化してしまう。


ただ、見るだけでよい。(批判や打消しをせずに)

 


クリシュナムルティのように、最初からエゴのない個体(存在)を生きる使命をもって生まれてき

た稀有な人間もいたけれど、私はエゴをたっぷりもって生まれてきた。


欲望のままそれを増幅し、自分に実現させてやることこそ幸福と信じ、私なりの生を愛する流

儀だと信じて情熱のままに行動してきた。


そうして、そのままつんのめるようにくたばっても文句のないところだったが、おおきな流れが

私に「気づき」をくださった。

 


さて、これから「エゴのない人間になれるか」といえば、それはむずかしい。


エゴというのはものすごい強敵だからね。

 


たとえば、

「エゴをなくそう、あの幸福や楽しみを、断念しよう」とおもったとたんエゴは強化される。


あれはダメだこれはダメだとエゴは自分を抑圧し、縛り、自らは強化する。

 

悟ろうとねがうことも、意外に、エゴを強化している。


目的のために自分を変形させようとしながら、人工的なサトリになってしまうのではないか。


エゴというのは、ものすごい怪物、強敵なのだ。



そのことを感じる。

 

「もう残り少ない時間なんだから、ぼやぼやしていられない、集中して、思考をなくすことだ。」と

いうクリシュナムルティを学んでいるひともいるが、そのひとは到達点というものがあり、そこへ

行こうとすることがじぶんを追い立てる、それもエゴではないのか。

 


私のような凡人は、自分のエゴを観つづけてゆくしかないと思う。

それしか方途がない。

 


一歩の道が自然にきりひらかれる。

私ができるのはその一歩を「ただそうだ」とうけとめること。





 

「死にたい」というエゴ

  • 2010.09.29 Wednesday
  • 21:22
開墾 037.jpg

 

「Dr. パルナサスの鏡」というファンタジー映画の中に、1000歳のおじいさんが出て

くる。


彼は、永遠の命をねがってかなえられたのだが、その生の辛さに、こんどは悪魔と取

引をして死なせてほしいと願っている。


映画では、おじいさんはぼろぼろになっても死ねないので、のこりの力を死ぬことに

注ぎ込む。


まずはおじいさんたら、なんということを願ったのでしょう!この世での永遠の命なん


おそろしい…

 

辛い、つらい事が続き、それからのがれるすべがないとおもわれるとき、ひげの襤褸

のおじいさんのように、死をねがう。


死んだほうがマシかと、むしろ死を願うことがあるが…

 


まて。


そこに座れ。

 


それ

「死にたい」は、ものすごいエゴではないのか?


究極の自己愛ではありませんか?

 

どうしてもこえなければならない古びた岩盤。

 

「死にたい」はありのままの私をうけいれられないこと。








 

 

夢の中のエゴ

  • 2010.09.19 Sunday
  • 09:52


 

久しぶりに夢を見て目を覚ます。



ひとつは、老若何女が、ビルの屋上からスノボで滑空している。


私も空をおもうがまますべっている。きもちいい!



私といえばスノボはおろか滑るスポーツはできないのだが、ゆめではできていた。


板で空を滑空!


その登場人物の中に、子供向けに政治経済の話をする解説者もいた。


物事がわかるとはそんな気分なのかも。


 

もうひとつは、むかし若いころ居候していたところで、私だけがご飯の支度をしなけれ

ばならなくて、それがいまの体のようにものすごく疲れてだるくて、つらいなあ、手伝っ

てほしいなあとTVをみているひとたちに思うのだけど、言えないで台所に立つ、その

こころは不満で爆発しそうになっている…という夢で、目が覚めて、そんな夢をみてい

る自分にがっかりしてしまった。


これ、産地直送のエゴだよ。


まだまだ、私の中にはこんなエゴがなんじゅうにも層をなしているのか!

 


そういうときは、おだやかに「疲れているからてつだってほしい」といえばいいのだ、と

目が覚めて訂正する。(…でも言えないなあ。)

 


気づかせてくれた夢。


私のエゴをみつめることで、ひとつひとつがなくなる。


まるでシャボン玉がきえてゆくように。

 


そんなひとつひとつを、こらからも見てゆく。


そうやって手を離してゆくしかないなあ。





ついでの善行  

  • 2010.08.21 Saturday
  • 23:01
2008,8月 ヨウシュヤマゴボウ.jpg

 

私と同じ境遇の人がいたら―とおもい書いてきた


       森で暮らしたい人には、「できるよ、夢はかなう」と言いたかったし.


       はみ出したアウトサイダーなら、「ひとりじゃないよ、生きて行けるさ」と。

そして、病気のひと、「大丈夫、ともに生きてゆこうよ」と。

そしてなにか力になれたらと。

 

どうでしょう

たぶん、自分ひとりをはげましたのでしょうね

たしかなことは、わたしは書くことが好きだということがわかりました。

 

自分ひとりを救おうとする行為なのに、なにか役に立てたらと思うこと。

ついでに良い人になりたがる。

 

ひとのために、という思いでやってきたけれど

老人ホームの絵画ボランティア20

友人の病院送迎17年

 

終わったけれど、なにもなくてよかった

なにか、(納得できる成果・報いが)あったら

ものごとは整合し、わたしはそれに捉えられ、

なにか因果律に絡まったまま、見てくれの(えみ)をはりつけたままになっていただろう。






 

 

 

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