賢治さん

  • 2014.10.09 Thursday
  • 21:32
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宮沢賢治の「雨にもマケズ…」というメモは、つとに有名で、小学校の頃から知っていた。
そのころは、ガンバリズム応援歌のようでもあった。
「雨にも…」というメモには、自我放棄と人に対する愛が書かれてある。
自分の生活はシンプルに。人を助け。という詩句に、あらためて、宮沢賢治という人に興味をもってあれこれ読み始めた
そうして宮沢賢治の作品に触れ、その人の航跡も調べたところ、はてしない模索と探究の短い生が横たわっていた。
 
じっさいかれの童話など、寓話であるだけによくわからないし、『銀河鉄道…』など意味深であり面白くなかった。わからせようとして書かれてはいないなあという印象だった。
それは、溢れるようにでてきたものだとおもう。
 
賢治さんにアプローチすればするほど、なんだかわからなくなっていったが、大きな愛におろおろあるいているようでせつなくなり、彼の気持ちは響いてきた。
 
昨今、宮沢賢治殺人事件などと、批判の対象になっているが、そもそも賢治さんは土俵に上がっていない。彼がなした、それらは仕事といわれるものだが、なにかを集大成しようとか成し遂げようという意思は、私は感じられなかった。ただ、ひとのために―とくに苦しんでいるひとのために心を搾ったひとだ。「そのこころあまりて言葉足らず」といわれた在原業平とは、異質だけれど、そのことばを私は捧げたい。
 
 
 

ルパート・スパイラ

  • 2014.09.23 Tuesday
  • 15:22

  • 2014.02.02 Sunday
  • 22:27

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池の面を風がなでてゆく

波紋がながれる

葦の立ち枯れが、ゆれる


ヨシキリが曇り空を切り裂くように鳴く

細い脚で、細い茎をつかまえ、とまり 飛び、ささやかな生存のための領地を描き。


暮れてゆく太陽のひかりが、ゆれる葦の穂先を金色にそめる

犬とともに、わたしもゆったり尻尾をふりながら






差別に抵抗することは誰にもできる。

  • 2012.07.05 Thursday
  • 09:13
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花崎皋平『静かな大地』松浦武四郎とアイヌ民族

江戸時代、松浦武四郎というひとが、蝦夷北海道を調べ、歩いて回った記録をもとに書かれてありました。

すばらしい本でした。

著者花崎皋平(はなざきこうへい)さんの思いも詰まっています。

 

息子が北海道に就職したときに一度だけ行ったのだが、日高のシベチャリ川のそばに、シャクシャイン(アイヌの首長)のチャシ(砦)があるという看板のところまで、雪の降りしきるなか行ったことがあった。

あとで調べると、そこで、二千余名のアイヌがシャクシャインに率いられ松前藩の支配、収奪にたいして蜂起するが、和解をもちかけられ、その宴席で首長は謀られて殺害され、結局鎮圧された。それがシャクシャインの戦いというそうです。

 

私は幼い時に母が教えてくれたことにアイヌのことがあって、大きな蕗の葉っぱの傘や、コロポックルのこと、なにより私は、その言葉のリズム感の美しさに、いつかユーカラを聞いてみたいとおもっていたものだ。



江戸時代、北海道を蝦夷と言ったころ、松浦武四郎という官吏が蝦夷の津々浦々を徒歩で、あるいは舟で川を遡行し、その地形や様子を調べ上げた。
そこに住んでいたアイヌにたいし深い親愛と尊敬をささげ、できる救済はしながら。

ここでも松前藩からの、アイヌに対する馴致、収奪、虐待、殺戮がくりひろげられていた。

先住民族であるアイヌにたいして、名前を変えさせ、髪を切り服装を変えさせた。

男は僻地で労働につかせ、女は妾にする。

大地に生きてきたものを大地から奪えば、生きる方法を奪う。

松浦が歩いた津々浦々では、アイヌは老人ばかりで食うことにもコト欠いていたという。

 

それは、私たちシャモ(和人)の先祖がなしたこと。

どうしてこうも、差別があり殺戮があるのか?

私たちが、今生き残っているということは、すくなくともそこに住んでいたひとたちをなにがしかの排除をして、生き残ったということだろうか。

 

〚一万年の旅路〛のモンゴロイドの一族は、歩み入った地の先住集団に対しては、興味をもって、斥候というか数人を派遣してそこに入り込み(主に婚姻や労働者として)その生活方法などを学ぶ(盗む)という記述があった。

同時に他集団に対して武力で征服する集団もあった、との記述もあった。

征服した人たちを労働力として使い、大きなモニュメントなどをつくらせていたが、ときとして労働者は一挙に脱走し、その巨石文化はそこで終わってしまったものもあるそうだ。

皆殺しもあっただろう。

その〚旅路〛のモンゴロイドは、オンタリオ湖畔に定住するが、他のネイティブ同様、ヨーロッパ大陸からきた民族に殺され追いやられる。

南米に入ったモンゴロイドはほとんど殺されたという。

 

いまもなお、差別と殺戮がとどまることはなく、続いている。

ダイレクトにそうしないとはいえ間接的には私たちも加担している。

差別は私たち遺伝子のなかにあるのだ。

 

そんななかに、差別をみきわめ、一人の闘いをしたひとがいた。

差別を見据えてすこしもぶれないひとだ。

 

 

……私が松浦武四郎からまなぶべき第一のものと考えるのは、真実を追求することをつうじておのれ自身が変わっていった、そのあり方である。
植民地を支配する民族の一員であり、しかもその政府の官吏になりながら、当時実質的に奴隷化されていた土着先住民族アイヌへの搾取と虐待を知るや、それを排除すべく批判し、直言し、彼らの友となろうとした生き方である。……                

――花崎皋平『静かな大地』344

 

 

そして、今……

 

──反原発の気持ちはあるが、様々な理由で実際に抗議行動などができない人たちに対してコメントを……

 

――小出裕章
 反原発運動なんて、やっていただかなくても結構です。

私が原発に反対してきたのは、差別に抵抗しているからです

原発は、都市と過疎地の差別の上に建ち、下請け労働者への差別なしに成立しません。

私の現場は原子力ですから、原発の差別性に反対しているのですが、差別は労働現場にもこの世界にも、山ほどあります

そうした「差別」に抵抗することは、誰にでもきっとできるし、それをやってくれるのなら、反原発にも、全ての問題にもつながります。

原発なんて放っておいてください。

私がやります。

自分が「どうしてもこれだけは譲れない」という、そのことに関してだけやってもらえればいいのです。

それですら大変なことですから、余力の無い人はそれでいいのです。

自分を責める必要はありません。

 

    ――Peoples News   http://www.jimmin.com/htmldoc/145001.htm

 

 

 

<弱い立場に置かされてしまっているひとに、どのようなまなざしをもてるかで決まるとおもいます。>――小出裕章さん








 

『ゴータマ・ブッタのメッセージ』

  • 2011.11.22 Tuesday
  • 22:40
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『ゴータマ・ブッタのメッセージ』―「スッタニパータ」私抄 羽矢辰夫

今一度ブッタの本を読んでみたいと思っていたところ、このような本が出版された。

 

 

ゴータマ・ブッダの思想でもっとも大切なことは、眠っている人間(わたしたち自身)であっても目覚めた人間(ブッタ)になれるということです。それはすなわち、わたしたちが現在疑いもなくもってしまっている、苦しみをもたらす認識のあり方を、安らぎをもたらす認識のあり方に統合するということです。7

 

 

 

在家者にとって「出家」に相当するのは「少欲知足」ではないかと思います。修行の結果「少欲知足」の境地にいたるのではなく、そこから修行が始まるのです。めざすのは「少欲知足」ではなく、「安らぎ」です。34

 




ありのままの己の心を知れ

  • 2011.03.03 Thursday
  • 23:13
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縦読恒沙書  (たと)恒沙(ごうしゃ)(しょ)()むとも  [ たとい万巻の書物を読破したところで、


不如持一句  一句(いっく)()する(しか)ず     [真の言葉を一つわきまえているのにしくはない。


有人若相問  人有(ひとあ)りて()(あい)()わば    [その真の言葉とはなにかと問うなら、


如実知自心  如実(にょじつ)(みずから)(こころ)()れ  [ありのままの己の心を知れと答えよう。
                        
                                    

                                                  
                                                                    ――良寛禅師



恒沙
(ごうしゃ)
…印度の恒河(ガンジス河)の沙(砂)。無数無量のこと。


一句…禅家で、言語をはなれた活句をいう。

 




 

 

わたしとは誰か?

  • 2011.02.28 Monday
  • 22:53
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わたしとは誰か、わたしとは誰か、わたしとは誰か、深く問い続けよ。

 わたしは自分の感覚に気が付いている。ならば、わたしはわたしの感覚ではない。ではわたしとは誰か。雲が空に漂っている。思考が心の中に漂っている。感情が体の中を漂っている。わたしはそれらのいずれでもない。なぜなら、わたしはそれらすべてを目撃するものだからだ。

 私は雲が存在するのか、感情が存在するのか、思考が存在するのかなどと疑うことはできる。しかし、今、この瞬間、それらを目撃している意識は疑うことができない。なぜなら、疑いという行為を目撃しているのが目撃者の意識だからである。

 

――<存在することのシンプルな感覚>ケン・ウィルバー

 

わたしとは誰か?

 

感覚はわたしではない

肉体は、わたしではない

思考(自我)はわたしではない

感情はわたしではない

なぜならわたしはそれを目撃しているから。

 

わたしとは目撃者であり、「純粋な意識」であるのに、まずは「纏わり覆っているもの」を自分と思い込んでいる。

 

 

心無罣礙(しんむけいげ)        こころに覆うものがない

無罣礙(むけいげ)()        こころに覆うものがないゆえに

(むう)恐怖(くふ)        恐怖がなく

遠離一切顚倒(おんりいっさいてんとう)夢想(むそう)  一切の転倒した夢想を離れ 

究竟(くぎょう)涅槃(ねはん)        究極の涅槃に到る

 

                            ――般若心経より

 

 

これは菩薩のすがたですが、まずは「こころを覆うもの」に、気づいて(目撃して)ゆくことでしょう。

 








 

なぜ書くのか?

  • 2011.02.19 Saturday
  • 22:51
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なぜ書くのか?
 

絵を描いていたころ、「何故描くのか」としょっちゅうかんがえていて、仲間や先生にあきれられていた。

「そんなことをいうやつはロクな絵が描けない」といわれましたが、本当でした。

理屈っぽい私にとって絵画は、やはり方途ではなかったのでしょう。

 

 

一方、文章を「なぜ書くのか」?と私は考えたことはありません。

私にとっては書くこと(頭の中で書くことを含めて)すなわち生きることだからでしょう。

 

書くのはいいとして、なぜブログにして公表するの?

と息子のひとりにきかれました。

私は長年自分だけのために文章を書いてきましたが、ここでだれかにむかって書く文章を訓練してみたかった。

書くという行為のなかにすでに他者に読んでもらうことが入っている。

論理もみあたらないとてもひどい文章というか、かきなぐりだけれど、こうして書くことには、読んで貰うことが土台になっている。

チャレンジとしてたいへん面白いし(ing)、幸いにこころの寛い読者に支えられて5年が経つが、私本体が変容してきたので、そのことは、書くという長年の方途を使って、発信し続けたいとおもうし、し続けなければいけない部分もある、と思う。なかなかうまくできないが。

 

 

したがって、真実を見たなら、それを声に出さなければならない。慈悲、怒りの知恵、相手を見ての説法、いずれをとるにしろ、話さなければならない。

        
            ―(ワン・テイストより)「存在することのシンプルな感覚」 ケン・ウィルバー





 

不完全感

  • 2011.02.15 Tuesday
  • 17:56
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                                                                           土に還る木の根


 

人間の「愛」は、エゴイズムに基づいている、ということを語っています。


人間には、もともと、不完全感が存在し
、それを埋めてくれる人、補ってくれることを期待するのだそうです。


私が愛だと信じて行ってきたことが、エゴだったということが、静かに語られていて、納得しました。

 


エックハルト・トール  relationships 「人間関係(愛・片思い)について」



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単なる一断片ではない 。

  • 2011.02.10 Thursday
  • 23:07
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じっさいのじぶんにはめをそむけ、「自分はよい」とおもいこむことはなはだし。

なんの根拠のあるものか!

過去の「よい」データだけでつくった自分像をじぶんとおもい。

そう思わなけりゃ、生きられないだろう。

自分の汚い部分がみえると、言い訳いいわけ

ごまかしぬりこめて

 

とく別なんかじゃない

みんな同じ

あなたのすることはわたしもする

わたしのしたことはあなたもした

 

ただ意味無く、自分は特別だと思っている

特別なOnly one でもない

 



人が自分のものだと思っているこれらの知識、感情、選択(自由意志)の統合が、みなそれほど遠くない昔に、無から生じたとみなすのは不可能だ。
むしろこれらの知識、感情、選択は、本質的には永遠にして不変のものであり、すべての人、いやすべての感覚を有する存在(衆生)が、共通して持っているひとつのものなのだ。
通常の理性では想像も及ばぬことだろうが、あなたと、意識を有する他の存在はみな、根はひとつなのだ。
それゆえ個々人の生きる人生は、存在自体の単なる一断片ではない。
そうではなくて、それはある意味で全体そのものなのだ……

                     
                                                                            ――エルヴィン・シュレディンガー



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