みせたい自分

  • 2015.07.26 Sunday
  • 23:08
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BSで、「茂登山さんと並木通り」とかいう番組をみていて、SUN MOTOYAMAの創始者が店の二階でインタヴューをうけているのだが、そこは窓際で、かれの背後に、つとめていたビルの出入り口がうつされていて、忙しそうに仕事している風のひとが出入りしていた。
 
自活の道に、仕事を紹介してくれる友人がいたもので、
並木通りとみゆき通りの交差するところにSUN MOTOYAMAがあり、私は向かいのビルの五階で仕事をしていたので、よくみえた。別世界だった。
私は「エルメス」を「ヘルメス」と言っていた。
「SUN MOTOYAMAのSUN ってなんでしょう?」とボスに聞くと、「MOTOYAMAさんだよ」と言った。ウム…
もうひとりの事務員が、SUN MOTOYAMAのバーゲンセールだというので私もついてゆき、はじめて目の前のビルに入った。私はそこでめちゃくちゃまよって1ヶ月の給料(=生活費)の半分でカシミヤのセーターを買った。それはシンプルでエレガントなデザインで、柔らかく繊細で着心地がよかった。
モトヤマさんがTVで、「美しいもの」といっている。
最良の素材で職人の技がつくるものはたしかに美となる。
現世の生が経験であるのだから、「美しいもの」を身につけることも、美の体験ではある。
お金によゆうのあるひとしかてにできない「美」でもある。
いまは作業着だいすき、洗いざらした木綿のものがいい。
TVの茂登山さんは、質のよい生地よい仕立ての服を着て、若々しくすてきだったが、みおわってかすかな違和感がじんわり。
あのころは、自分がどう見えるか見せたいかばかり考えていた。
よくみれば、最近10年ほど前まで、あった。山暮らしなりに、だ。
もういい。
 
世界は必ず自分にとって大事なことをつきつけてくるから、自分を何者と考えているつもりであっても、長期間誤解し続けてはいられない。――――エックハルト・トール
 



 

TVって…

  • 2014.02.14 Friday
  • 22:02

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長年作曲をしてきたひとが、耳が聴こえなくなっても作曲できるのだろう。音符が頭の中で交響するだろうとおもうが、やはりじっさいに聴いてみたいだろうとおもう。ベートーベンのそんなはなしにたましいを揺さぶられたにんげんとして、《魂の旋律》というTVのドキュメンタリーは視たいとおもった。

バイオリンに手をふれて音を感じ取るという場面で??とおもい、暗い室内で、サングラスをかけていることも??で、耳がきこえなければ目が感覚の窓になるだろうに。

そのなんだかわからない苦悩めいた日常をくらしているらしい。私は見るに耐えず、こんないかがわしいものを視たくないと、途中でスイッチを切ってしまった。ただ、音楽はすばらしかったと記憶しています。

私とおなじように感じた人はいるとおもいます。視聴者をなめてますねえ。

一般のひとをドキュメンタリーに仕立てたものなどを好んでよく見ていたころがあったが、そんななかで、ふつうのおっさんや、素朴なばあちゃんなどが、ここ一番犁磴ところ“では目のあたりをこすっていたりしているエンディングなどをみせられると、なんだかなー。サービス精神なのかなー。

佐村河内氏も、ドキュを作るひとも、「みんな、こういうの好きだろう?」といっているようなきがします。


TVはペインボディであふれているところだとエックハルト・トールも書いています。

おもしろければ、節操無くもちあげ起用し、ことがあれば攻撃に換わり、そしてすっぱり切り捨てる。そんな世界に同期しないように。

なかには興味深いものもありますから、録画をしてTVを楽しもうとおもっています。

TVに逃避というのも、ほどほど、わるくないし。





人間として。

  • 2013.12.27 Friday
  • 22:49
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先日TVをみていたら、元TVのディレクターで、母親の介護をきっかけに仕事をやめ、介護とそれを記録することに切り替えたというひとがいた。

認知症の母親を介護し看取ることを、男のひとがするとはいえ、奥さんも動員されるわけで、夫婦二人で介護する姿が放映されていた。

おもしろうてやがてかなしきは世の常かもしれないが、この家族は江戸っ子らしくぽんぽんとものを言い合って、とくにその元ディレクターの長男さんは、「死んだじいちゃんがまってるぜ」とか「もう往けば」とか「カリブ海の海賊につれてってもらう」など、ずばずば言っていて、母親は認知症であるとはいえけなげに応答したり、手で×をつくったりしてなんとか応戦しているすがたが印象的だった。

早い話「はやいとこ死んでくれ」といっていることなので、それは状況をみても偽らざる本心のようではある。

母親のほうは、そんな言い草に慣れているといったかんじで、「そうしたいが、死ねないんだよ」というような、なにかぎりぎりの真実をみせてもらった。

よく聞くことだが、認知症で排泄物に塗れるということも、ぼかしははいっていたが赤裸々に撮影され放映された。

この映像は、介護保険ができる前のことで、今はいろいろなサービスが受けられるそうだ。

 

「早く死んで」というのは本心だろうし、ほんとうに死にそうになってあれこれ手を尽くし死なないことを願うのもほんとうのことだ。

 

また、すこし前のことだが、自動車の修理をたのんでロビーで待っていたときのこと、隣に座ったご夫婦と事務の人が話しているのがきこえてきて、それは新車を買うという話から遺産のはなしに展開して、もっぱらご主人が、「あってどうしよう」というお悩みのようであるが、奥さんのほうが、なにかくりかえしくりかえしつぶやくように言っていることばに耳をうたがった。

死んで。早く死んで。と、つぶやくように合いの手をいれているようだった。

 

わが耳をうたがったし、また、聞いている事務員氏の耳もうたがったし、ご主人の耳もうたがった。こういうことをこんなダイレクトに繰り返し口にすることが、不審ではないのだろうか?冗談としても(そうはききとれなかったが)。

たとえばどうしてもそうしてしまう病気だったとしても、制することなのではないだろうか??

むかし、1980年代ごろにもまだ死は禁忌で、「死」ということばの端を口にしただけで、「縁起でもない!」と叱責されたものだ。むしろ死を呼んでしまうというのだろうか。それが今はずいぶん日常的にすべりこんできていて、死が人間をふくむ生物すべての宿命であり現実であり、死が禁忌ではなくなってきている。

とはいえ、あなた死んで。ということは、なにかが欠落している。

 

対象の死=消滅を願うということ。

それは耐え難い日々の対応をしらないものがとやかくいうことはできない。

私もあまりに出口無しな状況に、自己の消滅をふと考える。ときには気を許したひとにはもらしたりする。しかし、…

自分の死であれ、対象の死であれ、死を繰るような弄ぶようなことを軽々しく言ってはならない…とおもう。たとえ冗談でも。

人間として、言ってはならないことがあるのではないだろうか?


<高倉健>について

  • 2012.09.15 Saturday
  • 21:47

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<高倉健>について

 

 

 

 

彼を知ったのは、「背中の銀杏が泣いている」東大のポスターでした。

私の美意識にも官能にも無い男だったが、同性ならたまらなくカッコいいとおもうだろうなあ!と感じた。

アウトローで攻撃性をひめて抑圧されている男の夢じゃないかと。

その後、あの名作〚幸福の黄色いハンカチ〛と〚遥かなる山の呼び声〛で見たが、なにか空だからこそなんでも見る側の幻想を引き受けているというかんじがした。 

81歳、あたらしい映画ができたということで、NHKの『プロフェッショナル』にでていて、大変興味深く視ました。

俳優はとにかく身体、顔、キャラクターでしょう。

だれでもあの存在感とでもいう静の迫力を感じるとおもう。演じている、というよりも、なりきる、といったかんじがする。

 

「プロフェッショナルとは?」と聞かれ、健さんは「なりわいです、そう思いますね。」と、さらりと言った。

かれは、個人的なことは言わず出さず知らさず、役者は生活は知らせてはいけないのだと言う。

かれは、<高倉健>という人間を作り上げ生かしている。

まずは、役者は、作る人見る人の幻想の器とならなければならない。

その仕事を生業として「ギャラをもらって」(ということを彼はなんども言う)いる。

 

私生活では、寝転んでハナクソをほじっているかもしれないが、そのつくりあげた<高倉健>という人間が、他に類を見ないさりげない礼節、慈愛に満ちて、潔くて、軽妙、そこにいるだけで人を変える様な存在感がある。

彼が作り上げた<高倉健>という存在が、人のこころをつかんでいる様をTVが映し出していた。

 

私は、ひとの事情はわからないという基本をもっているし、わかったようなことをとやこう言わないようにしていますが、健さんのことで感じたことを、今回は書かせてもらいました。

 

健さんが、台本帳にはさんでいた歌と詩です。


あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき 

 

この さびしさ を きみ は ほほゑむ

 

会津八一

 

 

 

 

 

火を放たれたら手で揉み消そう

 

石を投げられたらで受けよう

 

斬られたら傷の手当をするだけ

 

――どんな場合にもかれらの挑戦に応じてはならない

 

ある限りの力で耐え忍び、耐え抜くのだ

 

 

 

           『樅の木は残った』山本周五郎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ありのままの自分」が露出できる相手

  • 2012.07.24 Tuesday
  • 20:55
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先日、ITお仕事の息子と電話でPCの不調についてあれこれ。

Skype導入。

また脳に汗。

「子に馬鹿だと思われたくない、ゆえに頑張るゾ」などというつまらぬ思考がおしよせて。

かような余計な思考などは蹴散らして、なんとか。

 

人は「見せたい自分」、「ありたい自分」、「あるべき自分」というものが頑丈にあり、また「ありのままの自分」というものがある。


社会に生きるものとして、それらはあって使い分けなければいけないけれど、社会(仕事場、地域社会)>友人・親兄弟>子供・伴侶(パートナー)というぐあいに、あるべき自分でならなければならないけれども。

伴侶は、それがもっとも無い対象なんだな。

この地上で「ありのままの自分」で生きられる相手ということだけですごいとおもいます。

 

それでも、だ、実際は、伴侶にたいしても「見せたい自分」、「ありたい自分」「あるべき自分」というものを表出しているわけで。


たとえば私の場合、喘息などというものがあったので、最初から弱さまるだし、かっこのつけようがないというところでやってきたので、ありのままだったわけだが、それでもしぶとくしぶとく「良い主婦」「よい人間」というものを演じていた。

頑張る。病人なりに。

そうでなければいけないとおもいこんでいたし、私のP―プライドでもあったのでしょう。

Pなんて、自信が無いことの生成物ですね。

 

ありのままでいられる相手というので伴侶がいるというのはすごいことだとおもうが、それでもなかなか良い部分しかみせたくはないものだ―人情として。

またじぶんは「ちゃんとやっているのだ」とばかりに良い人間をするのも。

 

…ともあれ、そんなことはやめよう。

無理はかならず相手を責める。自分も曲がる。

できないはできないでいい。

それがこまるならとことん話し合う。

何度も話し合う。

 

話し合って解決はしない。

理解なんかおたがいにできない。

とくに男と女は異人種だから。

 

しかし、なにかは変わっている。

 

 



愚痴は言ってしまうにかぎる

  • 2012.07.20 Friday
  • 22:53
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副腎で生成されるコルチゾールというホルモンは、脳にとどき、昔のストレスに感じたこと、危機感などを、よくストックさせるホルモンだそうで、女に多いそうだ。

傷ついたりしたことを何時までもおぼえていて執念深い。

それは子供をまもるために危険なデータはストックしておくのだといわれる。
男は、狩りに出るので、そんなデータはスルーさせてあらたな戦いに備えるので、少ないそうだ。

また男は会話をして調整してゆくというよりも、するかしないか、獲れるか獲れないかの世界で生きてきたので、伴侶の話を聞いたりして共感することの脳細胞が発達していない(のでは?きっとね)。

男女間の言葉によるコミュニケーションが難しいはずだ。

 

コルチゾールは脳を傷めるそうで、どんなに私はいためられただろうとおもう。

伴侶氏も「いつまでも憶えている」とあきれていたが、結局、私にすべてのためていたことを言わせてくれた。

やはり吐き出してしまうことがベストの方法だ。

第三者に言っても、効果有り。

それでも効果の無い人は、そのグチの内容が、存在理由になっているのでは?

もう、過去はすべてわすれようではないか。ついでに未来も憂えないで。

 

Kの言うように、過去も未来も無く、現在に生きればいいのだ。

これ以上コルチゾール漬けをやめて、脳を傷めないように、ね。


「なにかになりゆくこと」

  • 2012.06.28 Thursday
  • 22:06
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ひとつの生命の、この現実との接点こそ生だ。

岡本太郎は『爆発』と言った。

 

私は十代の頃、樹のありさまのすべてに対して、言葉無くスパークしていた。ああ、美しい!と惚けていた。官能的でもあった。それで私は充分幸せだった。

 

しかし、親キョーダイはそれぞれ出世をしてこその価値観だったし、社会も何もしなければ何の意味も無いという世界だった。

 

……「それ」木への愛、感情、賛美、すべてに対し、なにか表現しなければ、それは無にひとしいのだ。

「ただ感じた」…なんてことは無価値であるのだから、なんとか形にしなくては。それが人間の仕事だろう。

そしてそれはあるところまで評価され、できれば金を払われるところまでいかなくてはならないのだ。……

 

そうやって、私は自分のできることをさぐり、やはり絵で表現しよう、しなければ。するべきだと思い込んだ。

社会は、感じているだけでは、なんの意味も無い、なにかに形に表現しなければ無いにひとしいのだ。

たしかにその才能を働かせて絵や文や、さまざまな意匠で表現を競う世界がどーんとあった。

横尾忠則さんのようにきらめく才能が世界をひっぱってゆく仕事に憧れた。

私はもがいたけれど、そこでなんとかなることはできなかった。

 

なにかにならなくては食ってゆけないとおもいこんでいたが、ふしぎなことだが、なんとなく食ってはゆけたのだ。

 

いま、むしろそんなふうに「なにかになりゆくこと」ができなくてほんとうによかったとおもう。

「よくやらなかった!」

とおもう。

これはクリシュナムルティを読んでからの境地です。

 

何者でもない私が好きだ。

ま、かろうじて、「**の女房」にさせてもらいました。




「生は活動である。」

  • 2012.06.25 Monday
  • 22:58
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健康で、身体を動かして仕事をし遊びをし、腹が減ったら食べ、眠くなったら眠り、そうやって生きられたらしあわせだろうなあ。

 

身体というのは伸びをしただけでもきもちがいい。

筋肉も骨も血も、動かす仕様になっている。

走り、跳び、骨がきしみ、筋肉が収縮する、血が滾る、悦楽でもあるだろう。

 

わたしはそういう肉体をもっていないのであこがれているだけです

 

しかし、それだけで終わるほど人間の生は甘くはないようです

 

 

生は活動である。
生は死ぬまでの連続的な、終わりなき一連の動きである。
欲望から生まれる行動は歪曲され、限定され、この限定された行為は、何であろうと、終わることのない葛藤をもたらす。(中略)
いつも自分自身のこと、自分の問題、経験、歓び、楽しみ、仕事上の問題を考えており
完全に自己中心的である。
                                                  ━━クリシュナムルティ『最後の日記』p112

 

 

人間が生きてゆくことは、そうかんたんなことではないようです。

 

 

落ち込めば、かならず立ち上がる(と自分を信頼することにしている)

苦しみは、辛く苦しいが、かならず終わる。

そして、逃げないでごまかさないで向き合ったらば、そこを越えている。

だから、辛苦はあっていいのだと思う。

 

「あっていい」とはへんな言い方だ。

辛苦はあるものだから。

しかしそれを不平等不条理だと告発していたころが長かった。

 

不条理、辛苦に満ちた世界が真実なのだ。

それらすべてを包含して宇宙は生成と消滅を繰り返す。

 

どちらかといえば辛苦の世界に生まれてこないほうがよいもののようだが、辛苦をかぶり、穏やかにうけとめ、それを超えた時、この世界に生まれさせられたこと、そして生かされた意味がわかる時ではないでしょうか?

 

 

100年生きた亀さんが亡くなったそうです。

NHKTV『ダーウィンが来た』で、1000歳の砂漠の樹がありました。

それらのお姿は、ご苦労さんです!といいたくなります。




楽しタノシでいってみれば〜

  • 2012.04.03 Tuesday
  • 23:07
キクラゲ.JPGキクラゲ


腎臓の悪い人は、怖がりだそうだ。

東洋医学では、「多く怖るれば腎を破る。腎の病たるや好んで怖る」というそうで、大事にしすぎて悪化させるらしい。

血流をよくするために、動こう。

動くと疲れる、それが尋常でないから病気という。

疲れて寝るのもいいじゃないか。

眠れるっていいよ「時間がなくなる」って文句いってるけど、それだっていいかもしれないよ。やることが厳選されるよ。

ひょっとしたら、病気も楽しからずや?

 

 

<たとえば、なんでも“楽しタノシ”コーナー〜>

 

★時間がない…→やることを厳選する。ほんとにやりたいことっ!

 

★落ち込む…→ぜったいタダでは起きない習性。なにか持ってフッカツする。


★病気…→健康な人にはわからないトコ(精神?病院?)に住める

★苦しい…→必ず解放されるときは来る。超える楽しみアリ。

★痛い…→体が痛いのは、修復している証拠、よしよし

 

★旅行は行けない…→費用がホカに使える

★どこかへ行けない…→<足るを知る>ことがムリヤリできそう


★やりたいことできない…→ガマン無しで執着をはがせるぜ

 

★侮辱されー…→大歓迎!修行のチャ〜ンス

★無視されー…→いいなあ、ほっといてもらって。静か静か

 

★食事制限…→超ヘルシー

★毎日おんなじ昼ごはん…→たまの外食(掟破り)たのしみ〜

★毎日おなじ仕事…→慣れた仕事っていいね〜

 

★人間の暗黒…→勉強できます

★この世の暗黒…→退屈しません

★死…→終了だよ。やあやあごくろうさん!

「悼む人」―儀式について

  • 2011.02.24 Thursday
  • 22:10
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                                       春の使者―さっそく蕗味噌で

 

「悼む人」

友人のすすめで、読んでみました。

 

私にはむかしから解けない問いがあった。

いったい累々たる屍はなんなんだ?

ということ。人の死ということはなにかということです。

ただ切断であり、物質化であり、無化であるとはとても結論付けることはできなかった。

 

とりわけ、意味なく虐殺されたひとの、不条理。

いったいその人生はなんだったんだ。という痛みを伴った問いがつねにあり、解決することはないまま、不条理の渦に目を回してしまって、いったいわたしになにができるのだろう?と、そこで止まっている。

 

そのてん、この小説は殺された人々を悼む男が主人公ということで興味があった。

主人公は退職し、ためた金を持って、とりあえず日本列島を歩き始める。

犯罪のあった場所に赴き、その殺されたひとが何を幸福とし、誰を幸福にし、なにに感謝したか、だれに感謝されたか?そのことを調べて歩いてゆく。

その男の思いは私と共通する部分もある。

わたしが知りたいのは、「どのようにして悼むのか?」ということで、ただ何もできないままの私はそれに興味があった。


ところが、男の思いというのはあまり説明されていない、だまって行動する男でもある。

その悼み方というのは、彼独自の儀式を執り行い、自分の胸に送り憶えておくというものだった。

ひとができることは、それは精一杯だろう。そうおもう。

 

しかし、儀式というものに私は違和感をもっている。

儀式は儀式でいいじゃないか、とは思わない。

儀式によって、何か変質してしまう。外面をとどこおりなくおこなうことで、内面をなおざりにする。

禊という儀式があるが、禊をおこなったから、ほんとうに清浄になったと思う人はいないだろう。

そんな気分になったか、「そういうことにする」ということを暗黙に了承するだけのこと。

 

私は、この本を読んで、世界カトリックの最高権威ローマバチカンの儀式を連想した。

規模はちがうが、儀式というものが隠蔽し見ないようにしてしまうことは一緒ではないかと。
なにか不条理を、悲嘆というものを、コンクリートで固めてしまうような。

それもまたいいだろう。

なぜなら痛みを累積させてゆけば、つもり積もって、身動きがとれなくなる。

せめて儀式をおこなうことでファイリングみたいなことをできるのかもしれないな、と。

 

主人公がひとりでするのは、ほんとうに心のこもったささやかな儀式なのだが、路傍で彼がそれをつぎつぎとしてゆくたびに、まてよと思う。
なにか、じぶんが納得するためにしているようなかんじがしてくる。

儀式は中身をきれいな包装紙でくるんでしまう。

 

悼むとはなんだろう?

主人公が聞いて歩いたように、知ること、真実にはなかなか到達しないのだが、それでも知ろうとすること、そして胸に置いておくことだろう。


儀式という方策を持たない私は、いままでもそうだったように、たぶんいつまでも解決しないまま、結論もなく、なぐさめもなく、なにもできない無力感とともに、不器用にこころにもちつづけることしかできない。



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