認めてもらいたい

  • 2011.08.10 Wednesday
  • 21:38
 

 

ある人に私からアプローチしたことがあります。友人になりたいとおもいました。

自分を肯定して生きていると直感で感じたのですね。

無意識に、自分を肯定できないでいた私が、彼女に影響されたいとおもったのでした。
影響されたい、なにかわからないけれど…と、漠然と感じていました。


つきあうなかで、彼女自身が自分を肯定して生きているのはわかりました。自身はいうまでもなく、身に降りかかるどんなことでも、よいようにうけとる彼女はすごいなあとおもったものです。

ですが、一向に私のことを認めてはくれないことに気づきました。私だけでなく、他者は基本的には受け入れていません。

それを言うと、「冷たいのよ」と言いました。

 


別の、話を聞いてくれるひとがいて、

「あたりまえですよ、自分は肯定、他者は否定なんですよ」とあっけなく言われました。自分を肯定するために、他者を否定するというのは、よく行われている事だとも言っていました。

 

私だけ判っていなかったのですね。

今でもよくわかりません。

たとえば批判―他者の否定は、自分を肯定することとして、こういうことで自分を肯定できるのでしょうか?

すくなくとも私がのぞんでいる自己肯定とはちがっています。

 

また、私じしん彼女に肯定してもらいたいと願ったのならば、それは依存というものではないでしょうか。

よく考えてみると、ひとに肯定されることを願うのもどうか、と思ったのです。

 

また、「肯定される」とはなんでしょう?いったい私はなにを求めていたのか?

 


徒然草に、
よき友に三つあり、薬師(くすし)、ものくるる友、知恵あるもの


とありますが、友というのはこちらに便利な存在を「よき友」というのですね。

私はすこしちがっていて、人間として、相手の人間を知りたい、人間に耳を澄ますことだとおもって、強引におもってやってきました。

しかし、まあ、当然ながら、私という人間には興味を示してはくれなかったという話です。
そのへんに「どうして私にきいてくれないのか?」ともおもったのでしょう。

 

ずいぶんと人は認めてもらいたい、尊重されたい生き物のようです。




 

 

「無条件」について

  • 2011.08.08 Monday
  • 23:10
 

ユイちっちさんがコメントをくださり、私のほうのレスポンスが長くなりましたので記事にしました。

 ……………………………………………….

話の趣旨が違っているかも知れませんが、意見を聞かせてください。



>
相手も無条件に受け入れられるとおもいます。

この「無条件」とはどのような意味でしょうか?
考え方?
行動?
容姿(髪型・服装・その他)?
それら含めた全て?

 

それから、相手を無条件に受け入れることは必要なのでしょうか? ………………………………………………………………………………………..

 

>無条件に相手を受け入れる

―言葉に酔ってしまったかもしれません。

相手が刃物を持って傷つけてきたらそれも受け入れるのか?といわれればそうではありませんよね。

なかなか難しいです。

ここは、心理的な事柄だけを考えて見ましょう。

 

>考え方―自分とおなじような考え方をするか
>行動―自分に利のある行動をするか
>容姿―自分にとって好ましいか?
など、あいてを分別して受け入れるか受け入れないかするわけですね。この世の中でなされていることのひとつのように思われます。

 

>相手を無条件に受け入れることは必要なのでしょうか?

とお尋ねですが、相手も自分も無条件にうけいれることは、必要だとは思いません。

 

ただ、私はありのままの私を受け入れる―認める、肯定したいと願ったのです。

私のいまの段階では、自分をうけいれること、―無条件です―すると自然に相手もうけいれます。本当は相手も自分も同じだからです。

自分を無条件でうけいれることは、ありのまま自分(欠点もなにもかもそのままの)を認めることです。たとえば病気で何の役にもたたないなさけない自分でも、そのまま認めるとしましょう。すると、どんなひとでも「役に立たない」から没だということはないんだとわかってきます。そこには、容姿や行動や考え方などで分別するということはありません。

 

微妙なところですが、「みんないいのだ」というのとすこしちがいます。いいもわるいもないと思います。

 

 

心理的な事柄だけ考えてみましたが、すべてに無条件だった人がじっさいひとりいます。
良寛さんです。
ありのままそのままを受け止めて、寺を出されれば、故郷にむかって歩き、生まれた地の浜で寝ていたところあやしいと地元民に焼き殺されそうになり、たまたま知ったひとが通りがかって放免された。「どうして在のものだといわなかったのだ」といったところ「しょうがないば」といったそうです。顔見知りが通らなかったら、ころされていたところでしたが、それはしかたがないといったのです。

また、庵に泥棒が入って盗る物が何も無く、寝ていた良寛さんの布団をひっぱります。目を覚ました良寛さんは、寝たふりをしながら泥棒がとりやすいように寝返りを打ったそうです。

三条の大地震のときにはおろおろ涙をながしながらなにもできずにあるきまわり、「災難に遭うときは遭うがよろしく候。死ぬ時は死ぬがよろしく候。」と手紙にかく良寛さんでした。
すべてに無条件であることは、生も死もつきぬけて、ありのままそのままをいきてゆくことであるようです。

なかなか到達できない境地です。

 

これを書いていて、むかし山荘で、家をでてきた調理師の女の子に、「芸術と生活は両立するか?」というテーマを渡され、ない頭でがんばって理屈をこねたことをおもいだしました。



 

 

相手を批判すれば自分を誤魔化す

  • 2011.08.06 Saturday
  • 22:05
2011.5月 011.jpg

 

たわわに実ったブルーベリーを摘んでいると、ふいに「他者の批判→自己誤魔化し」という方程式発見。


相手を批判していると、自動的に自分を誤魔化します。おおこわ。

 

「『疲れるのは、火葬場なんか見学にいくからだ』って言ってたよ」と、友人の夫さんが言ったそうだ。その夫さんは、定年後ほとんど外界との接触をせずTVに向かって評論家しているらしい。

 

正しい自分がある→他人を批判する、していると、ぐるっと自分に矛先がまわってくることがある。自分の矛なので、誤魔化せるのをいいことに「自分はいい」とつねに更新し、自動的におもいこんでいるのではないでしょうか。

疲れても火葬場見学に行った事情もあったんですがね。

いきているうちにそんなとこへ行く人間もいるのです。疲れるのは病気だからだし、疲れは自分で始末してます。


 

もうひとつ、「…言ってたよ」というのは、「言ってた」人の意見以上に、そのひとの意見、ですよね。さすれば、そこに、直接には言いにくい “いい台詞”をいれるといいかもしれません!ハハハ




「素敵」を生きることの嘘

  • 2011.07.20 Wednesday
  • 21:45
2011.7月 011.jpgヤマモモの実

 

ドキュメンタリーで、「二本の木」というのを見た。(BS。ナントカ賞最優秀賞)

夫婦ともに末期がんで、支えあって終末期を生きるという内容だった。

著名な女優と歌舞伎の人がその妻と夫の『日記』を泣きながら朗読していた。

確かに過酷な状況は痛ましく、たがいのおもいやりがそこにはせつせつとあったが、見るほうは泣けなかった。

奥さんのほうは、なかなか魅力的な人で絵を描く。

ご主人とは地方の**で出逢った。ご主人もやさしそうな素敵な人だ。

 

仲良しということなのかな。

よい夫婦でしたということなのかな。

ガンでたいへんでした。

製作意図は、そのへんの感動なのだろうか。

 

 

私はなにか二人とも死んでしまったので、いたましいという印象がのこってしかたがなかった。

仲良し夫婦が、共にガンで闘病して、死んでしまったからいたましいのではなく、なにかひっしになって「よい夫婦」、「素敵な奥さん」、「魅力的な家族」を演じていて、旦那はそれをともにやってやる気弱なやさしさに満ちていた。

 

人間というのは、ああやって、自分も気がつかず、いつわって、生き、死んでしまうのだなあ。

自分あるいは自分たちは、取材されるほどのナニカがある…そのナニカを演じる、つまりそれが自分だと思っている…

評価の世界から脱せない。

カメラがそれをサポートする。

撮影させ、公開させる。

 

“とてもすてきないい夫婦でした”…むかしなら、私も信じて、私たちもそうなりたいとおもったことだろう。

理想として設定し、現実の自分たちのかっこ悪さ、ギクシャクさをマイナス評価していただろう。

 

私の高校からの友で、洗練された魅力を発散している女生徒がいた。スタイルよし、声よし、顔はミステリアスな魅力にみちて、かつ自分の魅力を輝かす努力はおこたらなかった。じつにもてたのだが、それは納得できた。私も魅了されていたからだ。私のひそかにあこがれる男子生徒は総ナメだった。何人もの求婚者の中からふさわしいひとりをえらんで結婚したが、出合った美しい愛人と半同棲して、そのすべてがトレンディだった。

「異性から見られなくなったらおしまいだとおもわない?」

頭も良く、とびぬけた見識を文学にもっていたので、話をするのが楽しかった.
「魂が高揚する」と私は言っていたものだ。
小林秀雄、ビスコンティは彼女から教わった。

 

子どもが二人いて、電話をすると娘がでて、「おかあさんはお仕事です」といったとき、おかあさんは愛人と一緒で、こどもをあざむいている…と私は受話器をちからなく切った。なにかはげしい厭悪感がやってきた。

結局私は去ってしまったが、「素敵」をいきることの空虚・嘘というものを十分見させてもらった。

 

「いい夫婦」なんてくそくらえ

「すてきな人」ごくろうさん

 

絵というものは、ことばでは言い尽くせないものを雄弁に語るものだ。当ドキュでは、おくさんが描いたという油絵があって、展覧会用の雰囲気だった。それは人の横顔のそばに二本の木がたたずむ抽象的な構図で、やや哲学味で描かれていたが、なにか巧くセンスよく描いたということがつたわってくるだけだった。

 

その絵のなかの描かれた木には葉が無く、ただの裸の木がすんなりと立っていたのだが、自分の棺にはヤマの木の葉のついた枝を入れてくれといったひとがいて、そのひとの木への思いに及ぶものは、その「二本の木」の絵からはかんじられなかった。






 

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