「幸運」について

  • 2015.06.04 Thursday
  • 10:50
2015.5.25 048.JPG

 
吉行淳之介氏に手紙を書いたのは、20歳になったばかりのころだった。
 
高校の図書館で出会った。
数々の文章のなかで、異質で独自の感触があった。
文章は、表意文字といい、それが含む意味を読むらしいが、日本文学は意味よりも日本語で表される共通の感覚があり共有があった。
吉行さんには、それに加えてその独特な世界があり、浸透圧で生体維持をしているような植物的な感覚と乾いた文章の肌触りというものがあった。その感触は自分の世界と呼応するようなここちがした。
たとえば観覧車としよう。文学といえば、乗っているゴンドラから見える風景や高度、密室で連れてゆかれる気分などが描かれる。いっぽう吉行さんの文章は、ゴンドラのなかの湿度やベンチの感触、息、窓の曇りなどを描写されているような、生々しくもすがすがしい生体があった。生体というものに関する繊細な感覚とそれを現す言葉へのセンス。
私は、言葉自体の触感というものがあるということを知った。「驟雨」とか「祝祭」とか、言葉に、肌触りと息があった。
いっぽうそのような作家が、なぜ、あのような、性にたいして軽すぎる文章をかきちらしているのか、20歳そこそこの私にはわからず、うけいれられなかった。
そんなころ、吉行文学の世界を映画のワンショットにしたような夢をみて、あまりに色や音や触感が、かそけくも妙に鮮やかだったので、手紙をかくことにした。
言葉は溢れるようにでてきて、汚い字でなぐりがきした、その数枚を送った。そのころは新聞社に問いあわせると、作家の住所を記した葉書がきたのだ。
作家の様子からいっても、返事などまったく念頭になかったが、真夏にオレンジ色の金魚が3匹泳いでいる白い封書が届いた。
 
 
見知らぬ人への手紙に返事を書くのは、じつに久しぶりです(恩着せがましいつもりではない)
あなたは、ほぼ、僕を正確に捉えているようです。いま、あなたが迷い、勉強しようとおもっているのは、よいことでしょう。ただ、二十才の人間と四十数才の人間とが、じつは大してその内容において違いがないということが、あなたがその年齢になれば分る筈です。それまでは、大いに迷い、ベンキョウしてください。
長いこと何も書いてないが、いま一つの作品を準備中です。書けるかどうか分らない、あなたの言うように、早く死ぬかもしれない。ぼくに信じているものがあるとすれば、「虚無」です。
それから、あなたが嘔吐しそうになったぼくのべつの文章について、ぼくはそれを恥じてはいない。「ガルガンチュアの大笑い」というのを、女性に体得しろ、というのはきわめて難しいが。
ともかく、良いお手紙をいたゞきました。その刺戟が、僕に返事を書かせました。
                                          吉行淳之介
**** 様
 
「準備中」の作品とは、『星と月は天の穴』と推察されます。
17才で北杜夫さんの葉書を頂戴した。そして20才のとき、吉行さんの手紙。
私はこれらで人生の幸運というものを使い切ってしまっただろうとぼんやり思った。
 
最近になって、その幸運が、それからの人生の行動パターンを決定した、ということがみえてきた。
感動する 素晴らしいと感動する 善いと判断する 相手になにか言わずに居れない 言葉が噴出する 書く それを本人に送りつける――
そうやって、パターンをくりかえしていただけだった。夢よもう一度。
 
人は、ペインボディや辛く不条理な出来事だけでなく、「すばらしいできごと」も、自分をブロックしてしまう。と、エックハルト・トールが書いていた。ほんとうにそうだった。

幸運とおもったものも、試練となる現世の生。

 
 

愛されないわたし

  • 2015.04.20 Monday
  • 22:07
4月 002.jpg

『アンナ・カレーニナ』という2012年製作された映画をTVでみた。
 
アンナにそっくりな女がいた。それは17才からの親友だった。
アンナのように家庭と愛人と二重生活をしているころに私は去ったが、いまはどうしているだろう。
映画のアンナを演じた女優と顔も体つきもそっくりだった。大きな瞳の強い視線を特徴とする。「あなたがわたしを愛さぬはずはない…」
あるブログにアンナは、「愛される私」というアイデンティティをもっていたと洞察されていたが、「それ―男の視線―が無ければおしまいだとおもわない?」と彼女も言っていて、つねに複数の異性にかこまれていた。
そういった自分への思い込みはアンナや友人だけのことではないし、架空のアイデンティティはだれしも持っている。そしてそれにふりまわされていることにきがつかない。
ふいに来たのは、自分のごく深くて暗いところに反転したパターンがあり――わたしのほうは「愛されるはずがない私」というアイデンティティだった!
 
必死に「自分は愛されるはず」と生きるのも面倒だが、「自分は愛されるはずがない」と思い込んでいるのもこまったもので、どちらもエゴというよりもペインボディが作り出すアイデンティティだ。
それに気がつくと、その思い込みがなした数々が立ち上がり、ふれあってくれた人びとをどんなに傷つけていたかに思い当たった。
なによりも私というそんざいを「愛されるはずがない」と決定することはファッショであり、誰よりも自分を傷つけていたことに思い至った。
「愛されるはずがない」ので、黙っていては存在しないも同然、私がうごかなければ人生はうごかないと右往左往し、ちょっとしたはずみのしぐさに強反応し、なにかしなければと自分をたきつける。あたかい好意にはシニカルで…そんなことをやってきた人生だったなあ。なによりも伴侶を傷つけた(ごめんね)が、彼は特別仕様なので私は助かった。
アイデンティティは、私にかくれてこんなこともする。
無意識に執拗にしつづけるというのは、ショックだった。

私の現世修行タイムは終わりかけているが、気がつくことしかない。
無意識の野でそれは執拗に傷つけつづけるが、気づき、観れば、それは霧消している。


 

かさねて、気づき

  • 2014.03.16 Sunday
  • 21:30
2013.1月 001.jpg

知らぬ間に纏っている古いふるいパターンを、ひとつひとつ気づいてゆくことをやってきて、いまもスイッチは入っている。
さいきんの釣果はおおきかったなあ!“自分を否定しまくる”パターン。これにはあきれた。
そうやって気づくたびに、ほんとうにばからしいことをしていたものだとおもう。
 
そんな日々、「自分はくやしいのだ」ということがふいにやってきたよ。
いや、待ってくれ、いま私は、なにも「くやしい」ことはないのだ。腎臓は17%働いてくれている。血液が濁っているので老化が早いが、まあいいよ。胃が痛むのはピロリ菌で萎縮しちゃっても腎不全で除菌できないが、食べればおさまる。そのまま。ありのまま。生きているよ。口惜しいも口惜しくないもないよ。
 
口惜しいというのはなんだろう?
おもいどうりにならないということか。
身体が弱くてできないこと・あきらめたこと・無理したこと・きつかったこと・引っ込み思案になったことなどがおしよせた。
 
…じょうぶだったら、こんな苦労はしないですんだ。
…がんばれることが頑張れないということがいちばん口惜しい。
…元気なら、苦労もくろうではないだろうとおもいこんでいる。
…元気なら、こんなふうにくどくど考えないで、さっさとやってしまうだろう。
……などなど…
これは古いふるいパターンだ。
 
「くやしい」とは、理想像のものさしで自分をはかっている
そんなものさしはとうに放り投げ、ありのままの―病気の―自分を淡々と生きているというのに、ひょっこり。
過去のパターンは、なんの脈絡も無く、顔を出す。
おお 消滅いたしますとも!
意識すれば、そのパターンは無くなる。
「くやしい」なんて、欠乏を食っているようなものだった。




 

自己否定

  • 2014.02.23 Sunday
  • 22:41
2014.2.9 018.jpg


気づき、をかさねていますと、いかに無意識に反応しているかということがみえてきます。
私の場合、とにかくダメだと自分を否定しているパターンばかりで、あきれはてています。
これはいったいどうしたことか?
 
そこでふと思い出したのが、反省というやつ。これははっきり憶えている。小学校のいちにちのおわりにおこなわれる反省会というやつ。反省することをめいめい発言する。そうか、一日の行動というものは反省しなければならないのだと。反省というパターンをインストールしたことは憶えている。
ただでさえ自己肯定感がないところに、反省癖がはいって自己否定も最強装備。
 
親はもちろん、学校・社会は―つまり教育は、ありのままは許されない。「それじゃあだめだ」という基本でたたきなおす。
これでは、自分というものすらわからずに、ただ自己否定か、あるいは自己正当化というパターンに我知らずふりまわされておわってしまうところだ。
 
私の場合、自分にひかりをあて、意識するようになってみれば、正当化というパターンはあまりみつからない代わりに、たゆまぬ自己否定をやっていたことがわかり、それはあまりにもひどいものだ。なにをやっても「やってよかったのか??」やらなくても、「やらなくていいのか??」「だめだめ!!」すべて否定。みえてきた自動パターンにあきれてしまう…
 
そういうふうに肯定できないでいると、ときに反動からじぶんでもあきれるほどのとんでもないことをやらかしてしまう。また、他からの否定は、限界値をオーバーフローして危機感から、攻撃に転じてしまうこともあった。そんなことをしていた私がまっさきにあやまりたいのは、伴侶で、そのしわ寄せがダイレクトに行っていたことです。どんな仁義なき攻撃にもまじめに対応してくれました。なかなかできないことなので、ほんとうにありがたいことだと感謝でいっぱいです。
 
…あ、否定してる、ほら、ダメだししている、……ときがつくようになって、きがつけばそれはきえてしまうが、つぎからつぎへとパターンがでてくる。それは、見えてくれば、すさまじいことをやっていたものだとおもう。つねに自分という生体をたゆまず否定し否定し、かさねがさね否定し、疲れを知らず否定しているのだから、生体はくたくたになり、ガンとか病気になっても不思議は無い。
そんなことがわかるのも、それがみえてからで、みえていないからこそ、責め続け痛めつけている。それはエゴの仕業なのだが、エゴは爐覆砲になるために“、爐いた佑任△襪燭瓩”“、狎犬のびるために”“、そんなパターンをつかってきたのだ。つまりエゴはじぶんを護るつもりでむしろ痛めつけ死に到らせもする。
これでは、病気になるわけだ。
ながねん苦しんだ喘息、――母が死んだ14才から運動すると起きた。冬の冷気を吸っただけで気管支が細くなってひーひーいっていたが、自分への否定攻撃と溺愛に、からだは喘息を起こしてもちこたえていたのかもしれない。
最近は、起きていない。この冬毎日の散歩で、おそるおそる走ってみたが起きなかった。いろいろな要因はあるかともおもうが、治ったのだろうか。
 
 

カルマというらしい

  • 2013.12.07 Saturday
  • 22:18
2013.12.05 008.JPG

ペインボディ

それは、いちばん親しい相手に、ふとした拍子に暴発する。

怒りの爆発は、自ら抑圧してきたエゴがつくりだしてはストックしていたネガティブなもので、さしたる意味も無いもの。それも出てしまえば何のことは無くなる。

口惜しさ・ウラミなどというたぐいのものは、「私はそうされるべき存在ではない」という基本があるからで、なんの、「私はそうされる基本がある」または「だれもがそういう世の中」という現実をすんなりうけいれれば、霧は晴れる。しかし、「理想を実現」社会ではなかなかそういうのが現実なんだということは、受け取りにくいものがあった。

人生でおもいどおりゆかないことはだれでもゴマンとあるわけで、私がその例外ということではないと。いまさらこんなことをいうのも、あきれた人間ですねえ。

 

おまけとして、

私の存在を支えていたとんでもない幻想を認識した。

その幻想は、私という存在の(偽の)アイデンティティになっていたので、

この学びに入っていなければ、この幻想にすがって終わるところでした。

みてみればそれは幻想だけに途方も無い―現実を裏切っている―思考であって、私だけでなく、アイデンティティというものは、ひそかな誇りとか過去のプライド、未来の完成形とかで、よくみてみれば、何の根拠も無いつまり幻にほかならないということを、今回はっきりみた。

見た(意識した)とたんに、それらは消え去った。

しかし、そのエゴの滴った古びた壷は意外に深い。出てくることを恩寵とおもう。

 

 

体調不良、透析に入る前には、透析してもらいたいと願うだろうと予想していたが、だんだんそうなりそうではある。なにせごく微々たる進行。

生きてゆくこととは、やはり健康で、目覚めて、“さあ今日も一日やったるで!なんでもどんとこいや〜”と起きられることだなあ。そうでない人生を私は与えられた。それも一興。


Enlightenment―意識の光をあてる

  • 2013.10.29 Tuesday
  • 15:08
2011.10月 010.jpg

 

自分がなにをしていたか?つまりどのようなパターンで反応し行動しているか?を意識した(観た・光をあてた)時点で、それをクリアしていた。Kの言うとおりだった。

ただ、あとからあとから湧いてくる。

残った執着に向き合う。

ずいぶんエゴに奉仕してきたもんだ。

 

身体的にはクリアになり、あろうことか元気になってきた。

実際は腎不全は老化とあいまってすすんでいるが、エネルギーに満ちながら静謐感がある。

本来の生とはそのようなものに近いのではないか?と思う。

 

状況にたいする批評というものがなくなり、ありのままを受容する。

意識の光に消えてしまった。

なにもなし。なにもこだわりがない。気にしない。

 

ねばならないではなく、よろこびとして、動く、仕事をする。

 


思考であれこれねじふせてゆくのではなく、自然な流れに身を任せると、思っていたいじょうの仕事ができる
――エックハルト・トール

 


「いいひと」というまぼろし

  • 2013.10.14 Monday
  • 21:08
2012.10月 004.jpg

 

わかっていたとおもっていただけで、わかっていなかったこと。

幻の自分像と同一化して(identify)いて、それは、私の場合「いいひと」だった。学校でも社会でも家庭でも「いい人間」であることがもとめられるこの社会で、だれが「いい人間」になろうとはしなかっただろうか?

いい子、いい妻、いい親、いい隣人、いい患者、いい客、いいブロガー、いい……etc.

いい人間であろうとすること。それはやはり人の思考がすることはエゴなので、なにかあればすぐさま、不満や抗議にかわります。

Identityというのは同一化という意味なのですね。そのような幻像と同一化してあたかもよく存在しているように生きている。

ほんとうは“いい“もわるいもない。それは都合のよい、いい気持ちの幻想にすぎない。

まぼろしと同一化して、傷ついたり不満だったり不快だったりしている。

エゴが原動力になり思考がつくりあげたマインドは、じつに複雑にからみあって厚い層をなしているということ。

 

いい**。そんなものはありはしない。わるい**も無い。

いいも悪いも無い。

 

そのようなものを―よくあろう―とかいうそういう動機・規律のようなものをなくしたら、やはりよくない関係になるのでは?と心配なムキもあるだろうが、いわゆるなにもない思考のない人間存在は、そのありのままが愛そのものなのだということも、潮がみちてくるようにあたりまえのことがわかってくる。

 




 

 

自己肯定感の無さは、自分(エゴ)がしていること

  • 2013.10.08 Tuesday
  • 17:58
2013.9.29 014.JPG

相手に対して自分の態度が、いちいちなさけなくなるのも、今していることを、こんなことをしている場合か?と、止めてほかのことをやらねばならないと自分を責め追い立てているのも、肯定感のなさからくるのだろう。などと、さきの記事で、親が基本的承認をくれなかったことを、自己否定の源流におもっていたが、それはちがうのではないか?

 

長年の友人は、親が承認したひとで、基本的な”I am OK”なひとだ。私はそのニオイに惹かれて私のほうからアプローチした友人だが、別の友人にいわせると、「それは”You are not OK”で自分以外はNOなのよ」と、この世の二元論を言う。

付き合ってみると、世間に対して自信がないのです。そうかもしれない。世間はOKとは言ってくれませんから。

親の承認がすべてではない。

 

けさエックハルト・トールを読んでいたら、それ(自己否定)はエゴが大好きなことだということが書かれてあった。たしかに過去の傷(ペインボディ)はエゴの大好きな餌です。

 

エゴ的思考は、「わたしは不十分です」という根強い気持ちをともなうのが特徴です。この気持ちを自覚している人もいれば、まったく無自覚の人もいます。本人が自覚している場合には、「わたしには価値が無い」という不安定な感情が、いつも表面化してきます。

                ―――第二章 第5節 完全になろうとして、さまよいつづけるエゴ                                                                                 <The Power of Now

 

親の承認がどうであれ、エゴ的思考は自分のしていること。






「お前はダメなんだ」

  • 2013.10.04 Friday
  • 22:23
2013.9.29 006.JPG

他者に向き合うと、自動的に攻撃的になってしまったり、防衛的になってしまったり、無意識に反応するが、私の場合、他者とむきあうと、奥のかび臭いコーナーから、…ダメだ、お前ダメだ…という小さな小さな声がしつこく聴こえていたことに気がつきました。そうだったのか!

私という本体=Nowにはまったくかかわりのないところ、たぶん過去のペインボディという名前の自分が自分をおとしめ否定してやまなかったのですね。

思考はほんとうにしつこくタフですねー!

こんな思考の垢のようなものを後生大事に持って、あるいはいつか表にだすのだ、とかリベンジしてやる、とかつっぱりながらウラでは、無価値な自分とか、生きた意味がないとかなんとか…まあやっていたことがわかり、そんなところからひとも傷つけたりしてました。ごめんね。

 

しかし、

気づきだすと次々に姿をあらわす。

そして意識のひかりに消えてゆく。ひかりに消えてゆく霧のように。

 

その長年積み重なった層は、一枚では終わらない。つぎつぎと出てくる。

チャンスだ。ひとつひとつ観ていく。

 

自己肯定感なんかあるもんか!じぶんはダメな人間で、くそ女で、というパターン。

ずーっと自己否定をやっていた。無意識に。ペインボディになっていた。

それが原因なのか、なにかとひとに認められたいと、それ(承認)が無くては生きている意味が無いと思うこともあった。時にはパニックを起こした。
思考=エゴの多彩なしわざにはもうおどろくばかり。

評価を求めてやまないひとは、自分で自動的にたぶん無意識に自己否定をしていて “自信がない”ということばであらわされるけれど、否定して自信をもたせない張本人は自分(思考=マインド)なのではないでしょうか。

 

承認をもとめるのは、親がしてくれなかったそれをもとめている―多くは無意識に(マズロー)―ということですが、親がしてくれなかったといって嘆くことはない。自分で自分を肯定するという大事業をすることができる。



「わかりません」「できません」

  • 2013.09.24 Tuesday
  • 22:44
2012.9月 001.jpg


 

私らのころからいまもなお相変わらずやっている学校の、出来る子が良い子、分かりが良い子、飲み込みが早い子がOKで、出来ない子はおいてけぼり。

私は“出来ない、わからない”をどうにかして教える、あるいはわかる方法を訓練するのが教育だとおもっていました。そうじゃないんですね。出来る子をのばし出来ない子をふりおとす。

そうすると、子のほうは、自分はできると思い込むか、できるとウソをつくか、部分できるとおもうか、落ちこぼれるか、…になる。教育とはいえない。試験場だ。選別ゲートです。

そうなると、「わかりません、できません、」といえるわけがない。言うのは敗残者。素直に言えるような教育をしていないから。

 

いまのわかいひとは、「わかりません。できません。」と言えない、

と夫が言っていましたが、私も「できません。わかりません。」といえない人間でした。

言ってはならぬ。という雰囲気だった。

自分は、「できません・わかりません」だから、つまりダメな人間だとおもっている。

だめだと思っているからこそ、いえないのではないでしょうか?

ゆえに、できない自分、わからないじぶんなどあってはならない、となります。

 

できないこと、わからないこと、ダメならダメで、そのままありのままがじぶんだと、うけいれることができたならば、知はそこからはじまるもののようにおもいますが。

 

 

calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< October 2017 >>

言葉と出会う

My Kitchen

selected entries

categories

archives

recent comment

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM