「それは祝福です。」

  • 2012.11.10 Saturday
  • 22:04



毎日散歩と体操は、"ささやか"すぎながら欠かさぬようにやっている。

その功あってかショッピングモールぐらいなら歩けるようになったので、先日、特急電車で東京駅に行ってみた。

私たちは山に住んでいるので、山の紅葉や温泉という気にはならず、都会方面に行きたくなる。

住んでいたころはおぞましかった人ごみが、なんだか面白かった。

 

東京駅といっても改装された外観を見る体力はなく、地下街でランチをたべコーヒーをのみおみやげを買って、「あ、もうだめだな」という感覚がきたのでそこまでにした。

あ、もうだめだなというのは、これで1〜5日寝るということだ。

 

何年も乗っていなかった電車に乗ることができて満足した。

 

 

少し前までは、夜も日中も少しでも眠ると、起きてから結構すっきりして働けたが、その季節も過ぎ去ってゆくもののようであり、今は、眠って起きても、そう良くはならない。

そうなってしまえば、またしきりなおしをすればいい。

これがすなわちわたしなのだから。

 

さて、かくなるうえは、問題は「すぐれぬ体調、あるいは苦の中にあるとき」だ。

そこから解放されることを待つ―否定―のではなく、それを否定せずに、うけいれること。

それがおわることを待つのではなく、それをできればおもしろがって生きてみること。

優れない体調や、苦のなかにあるときというものは、それが過ぎ去るのをひたすら待っていたが、いまはそのなかにひたっている。

 

千秋楽には、どんな苦が待ち受けているかしら〜ということで、慣れ親しみましょうぞ。

 

苦も苦ではなくなる、そのへんまで行きたいですね。

 

 

会う人も少なく…

買い物と病院のほかどこも行かず…

家にひとりでいる…

そういうと、電話をかけてきた、Kをともに学ぶ(というか私が生徒)友が、


Kがあなたの前にきて、『それは祝福です』と言うでしょう。」


こころに沁みた。



 

 

「わたしに聞いてください」

  • 2012.09.09 Sunday
  • 22:29



先日、体調もまあまあだったので、毎回おさそいのある会にでることができた。krishnamurtiの勉強会。

「元気そう」と主催者さんはよろこんでくれ、「病気もKの学びで治る」と言う。

 

こういうところでは、互いの学びがどのくらいとか、ステージ?がどのくらいとか、そんなことを気にしがちだが、ここは(いちおう表面は)無いほうで、だれもが言いたいことを言っている。

あれこれと自分の学びについて言葉をかわすのも、これまた学びになる。

おまけにくだらない自分に出会える。

 

途中で帰って来たが、やはり疲れて数日は寝ていた。

こういうところが病気なんだね。

 

「学びで治る」か…そうだといいんだけど。

身体というのは、器質だけで動いているわけではないもんな。

しかしその落とし穴は、「治りたいがために学ぶ」というエゴに入ってしまうことだ。

 

エネルギーを、葛藤などをし続けて、無駄につかわないこと。

葛藤というのはじつに多大なエネルギーを浪費する。

それが無くなれば、エネルギーは解放される。だから病気は治るだろう…と。

 

そう言ってもらえるのはうれしいが、この腎臓もわたしなんだ。

私の腎臓は遺伝子レベルで壊れてゆくのだから、その現象こそが自然で、まずはその自分をうけいれることからはじまる。

 

 

 

K会で。

「それができる―自我を終焉させ『ただ見る、ただ聞く、ただ在る』の境地―って、どういうかんじなんですか?」と、初対面の人に質問された。

そのとき、私ははじめて、「質問というものをされた」とおもった。

私自身はよく質問していたが、私の意見などあまり聞かれたことはなかった。

 

「……私はまずは自分のエゴをみることからはじめました。どういうかんじかのべるのはむつかしいが、葛藤というものがなくなってきますし、エネルギーが解き放たれて…なんとかかんとか、……」

 

質問するて、けっこう攻撃的なものなんだなあ、とおもったですね。

じぶんがさんざんやってきたことが、なんかみえてきて。

 

私は昔からほんとうによく質問した。

友達と話していて私は「あなたはどうおもいますか?」などときくものだから、友人たちは、ディスカッションが始まると戦々恐々としていた、といわれた。

 

あげく「毎日毎日(喘息で)こんなに身体が苦しくて、生きる意味があるのか?あったら教えてくれ!」と、神さんまで問い詰めた。

 

そのころの私ののぞみは、「聞いてくれる」ことだった。

アクターズスタジオの質問で、「天国に着いたら神様になんといわれたい?」というのがあって、私は迷うことなく、「神様は穏やかに向き合ってくれ、『さて**、人生はどうだった?』と聞いてくれ、静かに私の言葉を待ってくれている」…それがのぞみだった。

 

そのことは忘れていたが、「人生はどうだった?」にかんしてはこのブログでさんざん書きまくったので、もう神様のお時間をとらせることはないだろう。

 

神様にであえたら、まずは、お詫びだな。

…悪口雑言ごめんなさい。かずかずの苦難は、チャンスだったんですね。

そしてお礼

…ひとりじゃなかったこと。

やっとわかったようですね、と神様。









 

「たのしい腎不全ライフ」

  • 2012.08.28 Tuesday
  • 22:38
2012.8月 004.jpg


「たのしい腎不全ライフ」

この言葉、多発性のう胞腎のサイト「のうほう倶楽部」

http://www1.ezbbs.net/16/eko-hodouchi/でみつけました。

このサイトを見ると、いろいろな症状がある――血尿、腎臓が巨大化してわき腹お腹が張り出る、痛み、貧血…などがある。

私の腎臓も巨大化しているそうだが、症状としてはとにかくだるい。

血中カリウム、カルシウム異常、酸性血などは、主治医のさじ加減で、ありがたいことにうまくいっています。

定期的な脳MRI(瘤ができやすく脳出血)、骨粗しょう症の検査(骨の代謝がうまくいかない)、胸のX線、心電図、…などなどてんこもりです。

 

定期検診は毎回「順調に」数値が上がり―つまり腎機能が下がり―20%になりましたので、透析に目をソムケている時期はおわり、「さてそろそろシャントをつくっときましょう(透析で穿刺をする血管を太くする手術)」あるいは、腹膜透析にしますか、血液透析にしますか?ときかれるかなあ。

さて個人的には仕切りなおして腎不全にまともに向き合ってゆこうとおもいました。

 

 

先日ひとに、「出かけることはほとんど無いし、買い物などに行けば疲れてしまって寝ていることが多い」と言うと、「ナマケ病じゃないの?」と言う。

ほーん、そげな病があるんだ。

 

あれこれと私にとって、腎不全ということは、もう切り離せないなあというかんじがやってきましたので、当ブログの表題「森に住む。―腎不全うんぬん」としてみました。

さーて、腎不全をどうやってたのしもうか♪

 

いまの時点では、血液などのデータが3ヶ月ごとに出るのだが、それがおもしろい。

「β2mg」という項目の値が異常に高いので主治医に「ベータツーエムジーとは何ですか?」と聞くと、腎機能を測るものだといわれ、いまひとつわからなかったのでPCで調べた。

β2マイクログロブリンのことも、わかったわけではないが、なんとまあ、からだのしくみの精妙さよ!

身体というミクロコスモス―宇宙のひとつに目を見張る。

 

 

身体という宇宙は、不具合な臓器を補うように変化してゆくのではないでしょうか。

つい数年前は、ごはんの仕度をするのに何回か横になったものだったし、買い物もまんぞくに歩けなかった。

ずいぶん衰えたなあと、あまり大事に安静にというのはやめてみようと思った。

すこしでも歩くことを日課とし、いくらでもある外仕事をササヤカにやってみる…

それで腎不全がすすんだとしても、たいした差はないだろうし、そろそろびくびく生きるよりも、活動的に生きようと思い、あれこれと日常を見直して、すこしづつ実行している。

それにしても、動いただけ尋常でない疲れがやってきて、うごいた何倍もの休養をとらなければならないのだが、それにも抵抗しないことにした。

心理的に抵抗しながら休むなど、おかしなことで。

 

そうやって、

慢性病は、からだがそれに慣れるというか補うというか、悪いなりにうまく回転してくれている感じがしています。

それは進行があまりにもゆっくりだからなのでしょうか。

それでも厳然と腎不全は進み、これが私という自然なんだ、ということです。

 



 

 

草とわたしの関係

  • 2012.07.01 Sunday
  • 22:25
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草取り。
これは幸福感がある。

 

<草は棄嫌(きけん)に生(お)うるのみなる>(道元)と、言われるが、確かに草を敵にして、「種を飛ばすまえに除かねば!」と草といたちごっこをし、夏中作業をするのはしんどいことだった。

しかし、「ねばならないこと」など草においても無いことがわかった。

 

私たちは、森の一部を切り取って、そこの穴のようなところにむりやり住まわせてもらっている。

放っておけば、自然はみるみるうちにこんなちいさな生活形態などはおおいつくしてしまうだろう。

だがしばし、住まわせてくださいと、草を抜いたり木を切ったりしている。それは、「キレイにする」わけではないので、遊び半分、テキトーで、楽しい。

 

草はそれぞれ名前があり、無数の種類がある。

それが、さまざまな意匠をこらし生きている。

その、生きて繁殖する方法には実に感心する。

抜かれにくくする、抜こうとすれば切れて再生する、地下茎で繁殖する、蔓で伸びる、大量の種、発芽率がはげしくいい、速攻で成熟し種をばらまく、動物にくっつく、折ると種がこぼれる仕様、なかにはちいさいうちから可愛い花をつけ「まあ、いいや、おいとこう」などとおもわせ、じつは猛烈に種をとばすなどなど。

すごいなあ!勝てるわけ無いよ。

 

わたしは、まごうかたなき草の生命力を称え、草の美しさに眼を見張る。

そのつかのまの葉の、可憐な花のなんと美しいことだろう!


それを切り、引き抜く。

命を謳歌するように、繁殖する草たち。

そこに鮮烈なものがあって、やはり楽しい。





響く

  • 2012.05.24 Thursday
  • 23:02
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エゴノキの花が咲きこぼれます。

森のほうから♪チリリリリ♪と鳥の声が響きます。

 

ちょっとした許容量オーバーで、疲れ、何日もねてしまう。

回復すると仕事が優先、なかなか更新できませんが、私は書くことが好きのようで、ブログは続きます。

 

以前の私、人に対するなにか―よいとおもわれるなにか―を交流したくて情熱を燃やしていたころから、変わったとおもいます。

生きるかぎり変わり、変わるかぎり生かして貰える、そのようにおもっていますが、まあ、持ち時間も少なくなってきました。

 

その生きるということですが、ほんとうにおもしろい。

クリシュナムルティが、「世界とはとてつもないものです。」と言っています。
ランボオが、「青い嘘っぱちの色を引っ剥がして、黄金の光で生きた」とも書いています。

その辺にたどりつくには、まだまだわたしの前には剥がすすものがたくさんあり、古びた眺めがひろがっています。

 

ひびいてゆくなにかがあればいいのですが。

お読みくださり、ありがとうございます。




 






前向きに病気する

  • 2012.05.17 Thursday
  • 21:46
2012.5月 004.jpg


予定というものが無くなった。

いままで、予定表というものを作って記入していたが、ここ一年、予定が少なくなってツイニほとんど無くなったので、予定表ではなく、チェック表と言うのをオリジナルに作って記入することにした。

なにかするとか行くとかできないわけではなく、ナントカすることはできるが、そのあとがフツーじゃなく、何日も寝てすごさねばならないので、その寝てすごすほうのクオリティに注目することと、そのままだと硬直し滅亡してゆきそうなので、できるかぎりの仕事、運動などをすること。それらの仕事と身体と運動の状態をしるためのチェック表ですね。まえむきに病気することの一方法です。

 

 


起きぬけに襲ってくるネガ思考について。

ネガ思考、いやだな〜とかいう、そいつをどげんかせんといかん…というわけで、

         「いやだなあ〜」とおもっていることに気がつく。

         それは、真実ではない。

それは過去のデータがつくりあげたパターンであり、

なんの根拠も無く浮上して、真実振りをする。

…ということに気がつく

         いまはそうじゃないし、

そうおもいたくないし。

         気づき、観れば、

視線の先の浮雲のように消えてゆく

何時かパターンも消えている。

 

 

 

……ということで、当面無くなりますが、また湧く思考を意識してゆけばいいと。

 

夢も同様。脳がバグっているだけとおもえば、さしたる意味はないと思うのです。

 

 

 

おのがつとめにいそしみ…

  • 2012.03.23 Friday
  • 23:41
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また迷う夢。夜、前に住んでいた住宅街で迷っている。私は一人でどこに行きたいのかもわからず迷っている…

 

眼が覚めても起きないでグダグダヌタヌタして、5:30起床。


つまり、脳は、放っておけば自然にこのように、過去の不安、ちっぽけな満足などを夢に見て、起きても、そのまま意味の無い過去の思考をぐるぐるだらだら繰り返しているわけだ。

 

夢判断をみてみると、「道に迷う夢は、人生の選択で迷っている」と(あるサイト)にあったが、どうかな?

ただ、過去のゴミのようなものに脳がバグっているというかんじ。

 

検討するなんの意味も無いよ。

脳が自然回転しているだけで、過去の不安や嫌気、いじましい幸福感などを自動的にスクリーンに映している。

Kのいうとおり。即刻止めることだ。

 

めざめて、イヤだなあ〜とかも、厭世でもなんでもなく、意味も無く、まじめに取り上げることはないし、ただその想念をみれば消えてゆく

―くうに瞬間移動。

凡人コースとしては、そこからはじめよう。

 


ローマ皇帝も、自分に言っています…

 

明けがたに起きにくいときには、つぎの思いを念頭に用意しておくがよい。
「人間のつとめを果すために私は起きるのだ。」
自分がそのために生まれ、そのためにこの世に来た役目をしに行くのを、まだぶつぶつ言っているのか。
それとも自分という人間は夜具の中にもぐりこんで身を温めているために生まれたのか。
「だってこのほうが心地よいもの。」
では君は心地よい思いをするために生まれたのか、いったい全体君は物事を受身に経験するために生まれたのか、それとも行動するために生まれたのか。
小さな草木や小鳥や蟻や蜘蛛や、蜜蜂までがおのがつとめにいそしみ、それぞれ自分の分を果たして宇宙の秩序を形作っているのをみないのか。


                    ―――《自省録》第五章1  マルクス・アウレーリウス


ぐだぐだと始まる朝

  • 2012.03.13 Tuesday
  • 23:10
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夢。

〜〜父親と子どもたちは先に行っていて、私はあとから追いかけている。
さびれた小屋に着くが、彼らはどこかへ行ってそこにはいない。
追いかけようか、…どうしよう?
どこに行ったのかわからない〜〜


病弱な私は、健康チームに、遅れ、追いかけ、置いてけぼり、はぐれ、迷い…

それにしても、道に迷う夢ばかり。なんで?

 

 

5:25起床

5時に眼が覚めて、ぐだぐだしていた。

思考がもんだいなのだとわかっても、思考は否応なくなだれてくる。

 

…大震災一年の映像を見て思う、肉親の死にあった人生は変わるだろう。

私も母の死に様を見て、変わらざるを得なかった。
もともとは能天気な小学生だった。


水死…津波の犠牲になった方々のありさまは、それこそ筆舌につくしがたいという。

病死…尿毒症はいやだ。透析はどうこうといわれるけど、薬、透析は救いだとおもう。

死を恐れないといえるのかどうか。なんとかかんとか…

 


起きて、ふにゃふにゃの精神。

高潔でなんかありえない私が、どう生きてゆくのか?

そのままいきるわけだがね。

ああ、つまらん。そのままじゃつまらん。

 

 

大震災で、目の前で家族が流されてしまった人びとに、なにを言えるだろう。

私は母の無残な死をいつまでもひきずっている、

それでもいう


そのままで、そのままで、

生きるしかない

生きていることを唯一の事実として

 

よいとかよくないとか、それをはずしたところ

思考とは過去だ。
せめて葛藤をなくして。

葛藤をしこたまやってきた私がいう、葛藤してもなんの解決にはならなかった。

 


川がとうとうと流れている。

それに逆らわず、葛藤せず、無心で流されることかもしれない。

空の眼にはいる景色、その耳にきこえる音、肌を撫でてゆく風

生きるも、死ぬも。

与えられて。

 

 

**店に、カーテンを買いに行こうとがんばって仕事を終わらせ、ナビを入れたら、40kmもあるのでやめた。
ドライブが好きなわけでもないし、なにもソコでなくたっていいのだ。
かつてソコにはいいのがあったから、昔なら頑張って行ってたけれど。
もうこだわらない。

 

出かけたくて、あんなに姉につきまとったけれど。

ほんとうは私は家にいるのが一番好きかも。


「出かけなければならないのだ」と思い込んでいた説が濃厚。

欲望とは思い込みかもしれません。

 

もし仮に元気になったりしたら、どうなるだろう?出かけるだろうか?

 

せっかく知足にたどり着いて、もとにもどるのはいやだ。

足るを知らない心は、むしろ辛い。




 

3.11があって、ひとはどうするのか?

  • 2012.02.04 Saturday
  • 22:24
 

 

体調悪く、昨日はカイロを5枚あてていても、身体があたたまらなかった。

今日は、午前10時からねる。昼食をとってまた寝る。

やっとのことで起きて、犬は飼い主の体調を理解できないからいつもどおりの散歩をしたが、脚が前に出にくい。

一週間前と一週間分の疲れ。どうしようもない。

 

一週間前は、兄夫妻と姉がヤマにやってきた。

兄や姉にしても、こういうからだの妹のところへ来るにあたって心配をしたが、「疲れてもいいこともある」などとイサマシイことを言ったのは私だし、だいじょうぶだよと言っているし、こういう<後払い>はわからないだろうなあ。なんだか孤独。

だまって寝る。

 

だれもがさまざまな不理解、孤独の中、生き、死んでいったのだとおもう。

それがあまりにかなしく無意味におもい神を発明した。のではないか。

喘息発作のときは、聖書に覆いかぶさるようにして、すがる様に読んだ。

ひとつの救いだった。

 

 

二年ぶりの再会と、父母などの話をした。私の知らなかったことが次々と出てきて、訂正しなければならない部分もあった。

 

また兄や姉のどんなことでも―内視鏡検査や糖尿病、単独登山で落ちて血まみれで単独帰宅したことなど、まあそういうことを面白がるひとたちである。

どちらも七十代だが、年齢などクソ食らえ。

 

末子の私も、世間で泳いできたわけで、ふりかえればこのような父母兄姉のつくる家庭で育ったことのバイアスがかかっていたわけだ。

あー、そーだったのか!だからこうだったんだ、といったことがみえてきて、おもしろかった。


単独で存在しているわけではない。

父母がいて、またその父母がいてキョウダイがいて…の存在だ。

あたりまえのことだが、ひとりが生きていると強調されるいまの社会だよ。

 


私はけっして黙っていない人なので、しゃべれば疲れるから、話すこと気をつけて、と気にかけるが、結構話してしまっていた。

疲れた。話すことはエネルギーをつかう。

 

 

寝ながらTVをつけたら、辺見庸さんがETV宗教の時間『心の時代』に出ていて、こころにくいライティング―スポットライトで話していた。

このひとの顔ドスがきいている。

 

3.11は宇宙のクシャミだといい、死んだ一人ひとりによりそう詩人だ。

彼の本は結構読んだ。しっくりくるものがあるんだ。

しいたげられるものに慟哭し、よりそい、自分の富を積むだけの人間とその機構に刃をつきつける。

その彼が、脳梗塞から生還して、いつもの凄みのある存在感も重みをくわえて、

「3.11があって、ひとは内面が新しくなることです。集団でどうこうではなく、ひとりがです。」というようなことを言っていた。

同じ思いです。

 

http://www.youtube.com/watch?v=MVKWtxXtZ3E&feature=endscreen&NR=1

 

 ↑冒頭から音が出ます。













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