私のなかの「理想」は崩壊する

  • 2016.03.17 Thursday
  • 16:56
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中沢さんを読んでいるうちに、すりこまれていた人生や人間についての「理想的な」型がこわれていた。…というか、まだこんなものが自分のなかにあったんだと。これは思いがけないことだった。つまり、甘かった。

たぶん幼少時から学校と、すりこまれた、世界にたいする理想的基準があって、それをもとに批判や評価、選別をし、糾弾や断罪の思考をしてきた。

しかし、人間や人生をはかる基準針を無くせば、ありのままのすがたというものをー反理想ゆえ受け入れがたくおもっていたものもーそんなものかと肯定できるようになる。

文明の発達に伴って思考も変化してゆく。

そもそも、「生存の理想」って何?

 

「理想的人生観」や「素晴らしい人間論」。それらは、これらなどが刷り込まれベースになる時代に育ったものとおもわれる。

 

 

人間は知を進化させ、知によって進化してきた。これからもそうだろう。

対称的思考はそのおおいなる段階だったとおもう。やさしさと感謝を持たざるをえず、自然とともに生き、循環する世界が、現在も辺境に残っているし、ひとのこころの古層にはあると私は信じている。

昨今では、知のボタンは人間が持っていて操作しているが、はたして知は人間を生きさせ、殖やすことができるのだろうか?知を先鋭化して、地球が維持できるのだろうか?それしか道は無いのだろうか?現に、知(の先鋭化)によって、人間らしさは失われつつあり、自然は踏みにじられ、人類の崩壊する音もきこえてくるが…、かといってあともどりはできない。

知をもって知を凌駕する。

よくもわるくも、それしか道は無いのだろう。行くしかないのだろう。

 

なにもない状態

  • 2014.04.16 Wednesday
  • 22:30
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無為自然とは、はからいが無くありのまま、自然にということで、なにもしないといういみではないのだが、いっとき、なにもしないというゾーンに入ったことがあった。
なにもしないといっても、仕事はこなし、社会的には変わらず生きていたが、自分のためにはなにもしないというかんじかな。
 
10年ほど前にクリシュナムルティに出会った。
文学・心理学・哲学という方向に爐覆法”を探っていたが、はじめて、毛嫌いしていたスピリチュアルのせかいに入っていった。
スピというと、髪の毛のレモンイエローのひととか太った和服のひととかが口走ることというイメージで、生理的に到底受け入れることはできなかった。いわゆる食わず嫌い。
私にはエゴの変形にしかみえなかった。
そうなので、たまたまばったり出会ったクリシュナムルティには、とても慎重に近づいたのだったが、ニューエイジ系か、宗教系かと思っていた。
ところが『自我の終焉』を読んで、革命が起きた。
自我は、生き残るために強化するものだというのがゆるぎない定説だった。そんな自我というものは終焉させるものなのだと!
そこからの道は、ほんとうにわくわくだった。それはスピの世界というものだったとおもう。スピに歩み入ったわけです。
理論的には『時間の終焉』で学んだ。
私にとっては鮮烈な学びだった。
そして実践しているうちに、「なにもしない」というゾーンにはいってしまった。
むしろ「してはいけない」のだというかんじかな。そのように受け取った。
たしかにエゴをみはってゆくと、思考・行動は、エゴにもとづいているので、きわまれば―単純すぎるロンリだが―なにもしないということになる。
私をリードしてくれた人は、「三次元を終わらせ(?)、<宇宙精神 Universal Mind >を感じとることが最重要」というスタンスだった。私のほうはとにかく神秘体験を求めるタチではないので、どうしてもそれには違和感があり、なにげにスルーしていた。私はただ知りたいだけなのだ。
そんなこんなで、気がつくとKの憂鬱そうな写真とともに、犲分のためにはなにもしない“という層に入り込んでいた。
それは無色透明で体温くらいの気流が停滞しているところ、のようだった。
家事や仕事のあわいに、呆然としている。基本的に「私」の無い状態で(瞑想状態―多分宇宙精神=神をかんじとれればいいのだろうが、)ふわふわ浮いていて、一瞬一瞬の自然の光景が圧倒的だった。それはそれでいいのかもしれないが、私にはちょっとまてよというかんじだった。
 
じっさいそこから脱出してはじめて、自分はそういう状態だったとわかるわけで。
そのきっかけは、エックハルト・トールに出会ったことからはじまった。
基本はクリシュナムルティでさんざん勉強したので、トールの話はひとつひとつ音をたてて解った。
 
『The Power of Now 』で生きてゆく場での(生きてゆくための)スピを学び、『A New Earth』で、学んだ。それは、Theory of Everything だった。
 
現実に生きてゆくことのスピリチュアルだった。
エックハルト・トールは、いまここで命をもやすことを言う。とても現実的なので、私にぴったり合った。
生きること。がっつり苦しむこと。上機嫌で、人生を楽しむこと。




 

「おおいなる一体の意識」

  • 2013.09.02 Monday
  • 11:08
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ずいぶん昔に読んだ立花隆の『臨死体験』につづきがあって、『証言・臨死体験』という下巻を知り文庫で読んでみた。

 

<臨死体験の多くは、生と死のはざまの幻覚に過ぎない。>そう感じた。
その個別性はその個別に生きてきた幻覚だったようだ。
それらは、この世ならぬ法悦感恍惚感とともにやってくるらしい。
脳内快感物質が一気に放出するということも言われている。
死ぬことが怖くなくなる。

 

ただ、それを超えて、彗星探検家木内鶴彦が、「次元」というものを示唆していた。霊的な次元というもの。
クリシュナムルティがはっきり言わなかったもの。
エックハルト・トールが明晰に説得力で明示したもの。
その超えた次元は在るといっていた。
それは収穫だった。面白かったので、抜書きしてみます。

 

 

<彗星探検家 木内鶴彦さんのケース>

この世はテレビゲームと同じといい、人間がこの世の時空しかないとおもっているのは、ゲームのキャラクターがゲーム以外の時空があるとはおもっていないのと同じことだと。「この世の時空を超越した時空があるんです」

……

質問者――高次元の時空では、この世的な時間や空間に縛られない現象が起き得るから、過去が現在と通底していても不思議ではないということですか。


■「それだけじゃありません。もっともっと不思議な現象がいくらでも起こるんです。臨死体験の中で、ぼくはまだ語っていない不思議な体験を沢山しています。臨死体験というのは、この世の次元を飛び越えて、高次元の世界に入ることなんです。そこでは、人が自分であり、動物が自分であり、いろんな物質が自分であるというような体験をすることができます。宇宙も自分なんです」

 

――その自分であるというのは、どういうことなんですか。


■「意識において一体ということです」

 

――そうすると、万物は意識において一体ということになりますか。


■「そういうことじゃないかなという気がします」

 

――だとすると、個々人の個別の意識というのはどういうことになりますか。


■「それはぼくは、スーパーコンピューターの端末みたいなものだとおもっているんです。大いなる一体の意識がスーパーコンピューターで、個別意識というのは、それにぶらさがって情報をやり取りしている存在にすぎないじゃないでしょうか?
だけど端末は端末で、集めた情報を独自に蓄積して独自に情報処理して、自分というものをこしらえあげて、自分では独自に存在しているような気持ちになっているけれど、本当はスーパーコンピューターにぶらさがっている端末にすぎない」

 

――臨死体験の中では、個別意識を離れ、その大いなる意識に連なることができるというわけですか。


■「そう、(…以下略」」

 

長年宇宙に目を向けてきた科学者が言うことなので、興味深かった。

ばくぜんとしたことを、言い切ってくれた。

 

先だって、ETV100分で名著でプラトンの『饗宴』をやっていた。
ソクラテスの言ったことを弟子であるプラトンが書いたのだって。しらなかった。

そのいうところに、――

≪この世は洞窟の中で火がつくりだす影のようなものをみんながこぞって見ているにすぎず、本当の世界はそれではなく、洞窟の外にある…≫

――というようなことを絵入りで解説していた。
シッダルタしかりイエスしかり、ソクラテスも言っていたのか!まあ私が知らなかっただけだけど、あんな大昔から言及されていたということで、つまりは、知る人がいて言われていたのだということでした。

「ほんとうの世界は、」とか「ほんとうの自分は」とかいわれるとやたら反抗的な気分でありましたが、みとめざるをえません。というか、真実でしょう。科学が宇宙を解明しだして、納得がいきました。

 

 

 

なんでも「チャンス」にする

  • 2013.08.22 Thursday
  • 22:40
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病気がここまでこさせたことを思う。

執着をたつことは、病気があとおししてくれた。

いたしかたなくやった。

そういうものは、その病気が快癒すると、リバウンドする。

たとえば腎移植をして健康をゲットして、やりたかったけれどできずにあきらめていたことが、出来る!というわけで、周囲もよろこんでくれる。海外旅行やらやりたかったけれどあきらめていた事コトをさあ!できる、というわけで、ドーパミンに身を委ねてとびまわり、数年で亡くなってしまったケースを2人知っている。

 

快癒して、執着がもどってきたら、それはチャンスにできる。

執着につっぱしるか、どこまでつっぱしるか、どのくらいでむなしいことに気がつくか、戻らないか、そんなゲートにできるかも、ですね。

執着のないことの爽やかさ軽さ、気分のよさそして静寂を味わえば、もう、単純に、もどりたくはありません。残っている執着はまだあるかもせれませんが、まあ、戻ることはないでしょう。

 

 

http://www.youtube.com/watch?v=cuc0HGIa1NM 

エックハルト〜スピリチュアルな目覚めは人生を楽にするのですか?

 

 




さいごまで残る執着とは?

  • 2013.08.16 Friday
  • 17:42
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さいごまで残る執着とはなんだろう?

…と、興味深く自分をみていましたが、でしたね。ははは。

それは食事制限でなんとか断ち切れたのですが、甘いものはOKなので、というかカロリー確保のために油と炭水化物は摂取制限はなかった。

お菓子。それにたいする執着は最後まで残りました。買ったり作ったり。

しかしそれも、もう飽き飽きして、執着もなくなったころ、もうひとつの執着にであったのでした。

 

それは、「わたし」への執着です。

とくに女は「わたし」というそんざいの歴史や経験の質などで世界をうけとめている傾向あるが(男は理論がつよい)ゆえに、わたしは「こうおもった・こうした・こう感じた」ということがけっこうレーゾンデートルになっていて、「私はどうこう…」と話すことがまさに事実なわけです。それは男と女は齟齬があるのはもちろん、こう思ったこう感じたとだれにでも全開なわけではなく、私のばあい、ひとりの友に「こうした・こう思った・こうかんじた」とやっていたわけです。おたがいによく聞きあうものですから、たいへんきもちがよく、ときどきハイテンションになっているじぶんがいます。

ドーパミンどばっ。それはそれでなかなかの味わいだし、たまに会う友だし、いいじゃんかとおもっていましたね。

先日も、話してハイテンションになっている自分発見。

そして、私の身体、あるいは深いところが、それは?…と言っている信号をキャッチしたのですね。

「私はこうした」は仮に事実にしても「こう感じた」「こう思う」などというところは幻想です。自分のつごうのわるいことは言わないし。それはエゴなんだ、ときづいたのです。

今後友人とは話すでしょうが、それをみるチャンスとなります。みれば=意識すれば、それは消えてゆく。

 

「わたし」への執着。ありましたね〜〜

 

このブログも似たところはありますね。いつか終わるでしょう。

 

精神世界を探究しているひとのブログというものが、だいたいのところ言葉が切れてしまう―終わってしまう―のは、私は、まったくそうだろうとおもうのです。精神世界が深まれば、むしろそうなって公開の言葉から立ち去ってゆくものだろう、とおもいます―特殊な例外は別にして―。大好きなブログに更新記事が無い、そのぶんそのひとの現実世界で苦闘あるいはふかめているのだろうなあと思っています。




 

 


「楽しいことは無い」か?

  • 2013.08.08 Thursday
  • 22:10
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ドーパミン的セロトニン的という言い方をおおざっぱにさせていただきます。
脳内物質とその交互の働きは、そんな単純なものではないだろうが、ここはわかりやすく、二つにわけて話したい。

 

執着をなくしてくると、「もうたのしいことは無いのではないか?いいのかそれで??」と、ふいにエゴがいう、「それで…寂しくはないのか?」。


楽しいことはある。というか、やってくる。いまそこにある。
しかし、それを「未来」というありもしない方向にひっぱらないということだ。

快をたいけんすると脳は「また!(したい)」という反応をして、本体をその欲望にむけて執着させるようになっている。

ふりかえれば、…したいと憧れ願った物事を自分にかなえてやるというのが行動エモーションだった。
自分にかなえてやる、それこそが人生だとおもっていたフシがある。
ドーパミンをたくさん湧出させたほうが勝ちみたいな。

 

その執着は、意識のまなざしにはきえてゆくもののようであり。
見て、意識してゆくだけで、執着は消える、消えるが、また性懲りも無くでてくるので、見て、意識して…そのくりかえしをすることになる。
そんなところから、いつか執着がなくなっていることに気づく。

楽しいことを追い求めなくとも、いつも“今”が静かにすばらしい。

 

ある日、“なんだかつまらないんじゃないか?”という脳の呟き―たぶん古いパターン思考の常套文句―を聞いた。

そうだなあ、欲望を追い求め、それがかなう、また!と期待してゆく、その方式にはドーパミン的な“わーっ”というような快感があったものだった!

それがなくなるとは、さみしいことだ…と感じた日があった。

だからといって、そのドーパミン方式に戻る気は金輪際無い。

それこそ苦の泉であるからね。
快と苦痛のシーソーゲームそれこそ人生だった。
じゅうぶんやった。やったからこそ超えられる。

それにやっとここにきて超えられそうになったではないか…。

 

まあ、それに代わってセロトニン的物質が静かなおだやかな状態をキープしてくれるはず、それには、やはり、精神的な作業だけでなく、じっさいの生活の場で身体(インナーボディ)に意識をむけてゆく日常―生活こそ場なのだと思う。

どんなときでも、どこにいても、臍下丹田を意識し、瞑想呼吸をすることによって、鎮まる。身体―インナーボディ―を感じる。

静かなよろこび、おだやかな流れ―セロトニン的―は、瞬間的にはあったかもしれないが、その持続は、やはり、ここにくるまで、味わえなかった。



 

 

特質について―それは美しい

  • 2013.08.01 Thursday
  • 22:21
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例えにしてはあまりにも天才ゆえにわかりやすい例として、モーツァルトなどはどうだろう。

まるまると音楽の脳―耳をもって生誕し、おおらかな母親でのびのびと成長し、才能を伸ばす環境―とくに父親教師―にあり、その才能を実現化するに多忙であり、おまけに天真爛漫な資質で生まれ、賢しらな思考に身を任せるすきまがあまり無かったようにおもえる。

やはりモーツァルトは宇宙のひびきを♪に書き換えた―とりあえず18世紀風に―。

モーツァルトというエネルギー体は、余計な共雑物をあまり纏わなかった。

夾雑物のない天真のモーツァルトの存在に響いた音は、自由な生体の音であり、つまり宇宙の音だ。彼が私たちにも楽しめるように楽譜にしてくれた。

ゲーテが、“モーツァルトは悪魔の使いだ、なぜならひとの心を惑わす(たらす)”と言ったというが、私にはモーツァルトの音は生そのものの音として心身に響いている。

 

モーツァルトは、とびぬけた才能のたとえだが、どんな人間にも、どんな生物にも特質がある。それを「大小」「優劣」「役に立つorたたない」などという条件をつけなければ、どれもすばらしい特質であると私はおもう。

その特質をもって食ってゆけるのか?というところが、人間界ではストレートにいかないことが、なんとも、不協和音だが。

 

 

私の特質が病弱であり、おまけに社会にあわせて生きてゆきたくないという基本は変わらず。

そんな人間でも、生きてこれたのだから、――生きてきたというよりも生かされてきましたというほうがしっくりする――こういう特質だから、こう、とか言い切れないものがある。

 

 

人間の世では、「役に立つ」ものを才能と呼び、ランクづけをしたり都合によって採用したり優劣をはかり勲章賞金をさずけたり、イロイロしているようだが、この宇宙のすべてのものに特質があり、それぞれの特質=いのちをいきている。

それは神様が与えし才能というか、エネルギー体のそれぞれの特質であり、それは質・量こそちがえ何にでもだれにでもあるとおもう。

人間界だけ、その内容はその多岐にわかれ、現世的に役に立つ=現世のシステムにアピールするとそれは才能とよばれ、重用され、代価や称賛もついてくる。

人の役に立ったり、助けたり、幸せにする人もいるし、地球の健全さに貢献しようと仕事をするひともいる。

しかし、本来生物はすべてその生そのものによって調和しているのではないだろうか?

生によってというのが、そのありのままのあたえられてある生は、それだけで調和している。

生があり死がある。

 

さまざまな特質をしてこの星にそんざいするものたち。

それらは、うつくしい。

 



すっぱり不満は捨てて…

  • 2013.07.23 Tuesday
  • 22:06
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顱ー分のエゴを縮小させると、他人のエゴに反応しなくなる

ふしぎだよね、でもそうなんだ、ほんとうに。

 

髻‖昭圓離┘瓦鯢塰に受けとり…などという作業はエゴの仕事なのだから、そうなるはずだよ、不思議じゃない。でも、じっさい他者のエゴに反応しないという爽やかさは予想いじょうだったでしょう。

 

顱,靴し、手付かずの=意識されていなかった過去に(似たものに)出会うと、不快感が襲う、これは反応していることだね。

 

髻,燭箸┐弌

 

顱〇拉枦な言動にあうと。それ、昔、私、やってたことだ。

 

髻^媼韻靴燭里世ら、それは光があたった影のように消えてゆくさ。

 

顱“冉困里ぎりなさにはまいる。

  あとから、ネガティブな思考パターンが湧いてくる。過去を掃除するかのように、だ。

 

髻ゝい鼎い討罎ことしかないさ。「その人の必要なものは必要なときにやって来る」とエックハルト・トールは言っている。湧いてくることは必要なんだよ。

 

顱.┘瓦討なものはもううんざりだ。わかってよかった。

 

 

 

不満があったら、伝えるべきだ。

もしそれができなかったり、効果がなかったなら、すっぱり不満は捨てて、ありのままの相手、ありのままの自分をうけいれよ。

―エックハルト・トール

 

 

http://www.youtube.com/watch?v=c9rmhu-HNSY 意識状態に責任を

 

 

 

 

 

この世は苦、あやまちの世界

  • 2013.06.28 Friday
  • 22:31
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思考が自分を苦しめ、この世でかかわることのできる相手をも、大好きな人をも苦しめ、愛してくれる人を悲しませ…。

 

なぜこんなことをしてしまうのか、いつまでもそれは去らないのか?
それはジンルイの脳が、思考というエゴが原動力のパターンでいきているから。

エゴに奉仕するためにそれは機能する。

自分の欲望―希望とか計画とか憧れとかそんな言葉で飾って、それをかなえるために頑張ってきた。

 

このような狼藉を働いていた思考というシステムにもはや別れを告げること、―そう決意して、「無くそう、なくそう」と頑張っては、またそれもエゴのパターンにはいってしまう。

エゴを執着を無くしてゆこうと決意し、自分を見張ること、浮かび上がってくるネガティブ思考をひとつひとつみてゆく=意識することで、きえてゆく…

 

 

この世は苦、あやまちの世界

そうある、のだから、そのために、生きて、そこをそれを生きて

超えられる or こえられない、、、 が、とにかく死ぬ

大団円か、エスケープか ともあれ終わる

死―終点からみることができるのは、ここまで進化した人類だけ

自己が宇宙のいち破片とみることができるのも、

超えることができるのも人類。

そう考えてみる



 

決意

  • 2013.06.11 Tuesday
  • 17:09

2010.5月4 朝焼け.jpg


 

母は、腎不全末期の身体で、バスに乗り電車に乗り、小学生の私のために―歯の矯正―東京の病院まで通ったのだが、自分がおなじ身体状況になると、それがどんなに大変なことだったかということがわかって。

ほんのたまゆらの動けるときには、やりたい仕事がうんとたまって自分優先したい、私なら。


親以上に子を愛するものはいない。

その流露を阻害するのは、思考に他ならない。

親のほうも。子のほうも。

……


自分が親になって見て、子に言いたいことはただひとつ「ごめんね」しかない。しかしだれだって母にあやまってほしくないだろう。

一度だけ母は、小学校から帰ると、寝ていたこうべをかえし、「*ちゃんごめんね」と言ったことがあった。私はむしろ母のその人生が悲しくて泣いた。子も親を愛している。「ごめんね」という言葉を蹴散らすほどに。

 

天から授かった縁である愛する者を阻害してしまう思考というもの。

母を悲しませ父を困らせ、夫を攻撃し、親友をなじり、子供にさみしいおもいをさせてしまった、思考というもの。

そんなものを後生大事にこねまわし、もちつづけ、正当化し、それこそ「よくする」作業なんだとおもいこんで。

 

ひとのいわゆる思考というものが、ひとの本質である慈愛を覆って、なにものにもかえがたい親を、愛する子を、またかけがえのない伴侶のことを、そして自分を苦悩させ悲しませたのです。

そんな思考にたよることもこだわることも無駄。

もはや後生大事にすることはできません。

  

私のだいじなひとにさみしいおもいをさせてしまった、そんな思考から、身を離そうと。

離すしかない…

「決意」という言葉がふと到着しました。


 

 

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