エックハルト・トールとの出会い

  • 2013.09.18 Wednesday
  • 08:06
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Krishnamurtiに出会って7年になる。

読んだ本は関連をふくめれば30冊程。

その内容は、次元を超えてゆく話だ。

「真髄は、はっきり言いきってしまえるものではない」ということが伝わってくるので、なおさらむずかしい。


K
の勉強会などに参加してみると、読めるひとは、またその論理や言葉を操って(すがって)理会しようとして言葉や概念や思考を駆使し言葉(思考)のスパイラルに入り込んでしまっている。

理解しようという情熱が、思考の網のなかに言葉をたよりにまよいこんでしまい、これもKはとても慎重にし、気をつけるように言っていたことだ。

 

言葉によって伝えられること。それは、言葉(概念)を超える。

 

アリエル・サナトの『クリシュナムルティとは誰だったのか』を読んで、

すべてを人間の脳で理解できないものがある

人間の知力、感性などあきらかに限界がある

ということを知らされた。そんなことはあたりまえかもしれないが、思考はすべて網羅しているのだと思う傾向があるのではないでしょうか。

クリシュナムルティはぎりぎりのレベルで伝えていったが、それ以上は伝える側の状態で、伝えることはできなかった、のか?

K自身はきわめて特殊な世界で育ち成長し特殊な人人(神智学協会からのシンパ)に囲まれていたのだが、その世界では、なにか禁忌があったような雰囲気もある

「これ以上は言語化してはいけない」といった―ことも感じる。

またことばのループに入り込んでしまうことにたいしても、つねに気をつけるように言っている。

 

I don’t know.という言葉は、力(エネルギー)をもちます。」
                        ――クリシュナムルティ

 

 

そんななか、エックハルト・トールに出会った。

Kはむずかしいが、エックハルト・トールはわかるように噛み砕いてくれる。すみからすみまでわかる―というのもKの教えと学びがあったからだ。

Kが断言しないでいたことも、言語化してあって、エキサイティングだった。

なにより、若いころに読み込んだ新約聖書の世界―とくにイエスの言動について、(教会はつごうのよいように誤訳している)、本来のイエスの伝えたかったことがわかってきて、うれしかった。

ブッダもイエスも、クリシュナムルティもトールも、究極、おなじことを言っている。

こんなに同じことを、あきらかなこと(あきらかにしたひとには)を、わからないのは、ほんとうに人類がまちがった進化途上だということでしょうか。

 



 

ゆけるとこまで。変化したい。

  • 2013.07.06 Saturday
  • 17:40
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クリシュナムルティ:どのようにはじめましょうか?まず、人間は進路を間違えたのだろうか、と尋ねることからはじめたらどうでしょう?

 

デビット・ボーム:進路を間違えたのだろうかと?そうですね、大昔に人間は間違えたに違いないとおもいます。

 

          ―― ENDING of TIME 時間の終焉 (渡辺充訳)より

 


クリシュナムルティは『時間の終焉』の最初に、人類は間違った道に…と言っている言葉は、私には衝撃でした。
正しい道とおもっていた。
それほど誤った進歩幻想に侵されていた、いまもいる、ということでしょう。

 

原始家族あるいは集団で、一日の糧があり、いちおう安全に眠れるなどという最低限の生活のなかで、より良くを求め、頭のよい人があれこれ工夫する。
「部外者は撃退しなければ、「糧を得る土地は護らなければ、と守りが攻撃に変わる。

そういう流れの中で、優れた種が生きのび繁栄してきた。

 

私たちは、生きのびるために脳を発達させ、進歩のためにもっと発達させるべく教育され、個人、または個人が同一化する家族や国家宗教などの富や幸福のためにエゴという原動力をあたりまえのように発動し、殺し戦争し壊滅させてきた―そういう人類の進化のながれであったが、人間世界もここに来て、もはや間違っていたというしかない有様であることはあきらかです。
東北の災害で、福島の惨状で、またまた世界に頻発している人災で、自然破壊、地球の破壊は留まるところを知りません。
そのなにかを学ばなければ、なにかを変化させなければ、ではないでしょうか。

 

脳はどこまで発達するのか。
科学技術はお化けのような知力で発達しつづけるだろうが、それが人間の生体と自然と調和する道の方向にゆくことはできるだろうか。

もどることはできないから、いくしかない。

終わりはいつか来るだろうが、恐竜くんたち大きすぎてダメだった…とおなじように、キミ達ジンルイも脳が大きすぎてダメだったのね、ということになるのだろうか? 

恐竜とて、最初の生命体から進化してそこまで行ったのだから、人間が仮に絶滅したとしても、そこを超える生命体=エネルギー体(宇宙のエネルギーが実質化したなにものか)が進化し続けると想像すると、面白い。

 

頭打ちになるならそれまで。と言うか?

現世の命があるかぎり、ゆけるとこまでゆきたくはないですか?

変化したくはないか?

持ち場であるこの存在で。限りある時間で。


…ということね、思うですね。

 

 

 

 

 

「現在」を失っていないか?

  • 2013.03.02 Saturday
  • 22:39
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「現在」を失っていないか?        

たとえば、食べているときでも、食べるという行為によろこんではいるけれど、なんとなく次なにを口に入れることに意識はいっていて、ほんとうに食べている今を味わっているか?というと、なかなかそうしていない。

また、TVを観ながらとかで、ついでに口に入れているように思える。

そうでなくともなにか考え事をしながら食べている。

また、仕事をしているときも、次に意識は行っていて次々というぐあいに流れてゆくが、これも今の瞬間は無意識状態だ。

どうも私たちは現在を失っているように思える。

 

アウレリウスも、持ちうるのは現在だけだと言っている。

ということは人生そのものを失っているということになる。

 

今に生きるとは、集中することのようだが、そうではない。集中とはひとつの行為に先鋭して(選択して、それを達成するべく)そこでエネルギーを燃やす。多分にエゴ燃焼行為だ。


今にリラックスすること、開け、思考をなくす、あるいは思考を批判も比較もなく観察すること。思考は去る。(…またやってくるにせよ…)


般若心経をを唱えると、「無無無…」とたたみかけて、この世界のすべては実体がないということが身に沁みる。私は仏教から入ったので、般若心経を理解し唱えることにより、じつに空ということが身にしみて育っていった。

 

いまやっていることをひとつひとつかるく意識する。

思考=主観がなくなれば、そこにあるものは…

 

 


君がまわりみちしいしい到達しようとねがっていることは、これを自ずから自分に拒みさえしなければ、どれでも今すぐに手に入れられるのだよ。それには全過去を打ち捨て、未来を摂理に委ね、ただ現在のみを経験と正義の方向へ向ければよいのだ。 ――
1第十二章

 

主観を外へ放り出せ。そうすれば君は助かる。誰が放り出すのを妨げるのだ。――25 第十二章

 

すべては主観にすぎないことを思え。その主観は君の力でどうにでもなるのだ。したがって君の意のままに主観を除去するがよい。するとあたかも岬をまわった船のごとく眼前にあらわれるのは、見よ、凪を、まったき静けさと、波もなき入江。   ――22 第十二章 『自省録』 マルクス アウレリウス

 


事実を受け入れること

  • 2013.02.09 Saturday
  • 22:31
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人が(私が)事実を認めていないことは、まことに驚くほどだ。

ジブンに都合のよくない事実は、認めたくない。見ないようにする。あるいはねじまげて解釈している。

たとえば、私が進行性の腎不全だというわけだが、体調のわるくないときもあり。そうなると、あきらめていたこと―やりたかったこと―ができるのではないかという喜びにひたされるわけで、山仕事や畑仕事など、興に乗って少々多めにやってしまい、数日後疲れがなんにちも引かず、ワレ病気ナリということをおもいしらされるわけで。そのくりかえし。

 

内輪の会に誘っていただき、そのときは体調がよかったのでOKしてあれこれ手配したが、やはり体調は悪化し、キャンセルせざるをえなくなった。

その友は、そんなことを鋭敏にキャッチし、電話をくれ、私から断る前に、やめましょうといってくれた。そして、

 

―病気だという事実をそらしたいだろうが、事実を認めること

―「できない」「やめる」という訓練をされているとおもうことだ

 

…と言われた。

 

事実を受け入れること認めること。

たぶん、「…しない」ということを、訓練されている。

結構なお手前でござります。

 

「できない」でいると、たまたま「できる」ことに有頂天になってしまう。

山仕事!…

また人と会いはなしをしたり会食したり…

それらもやはり執着だ。

できないつらさとか断る悔しさとか、そんな段階ではない。

 

病気だという事実をうけいれること。

できないこと。疲れて、身体が冷え、仕事もそこそこに寝続ける毎日を来る日も来る日もしつづけることをうけいれることだ。痛くないだけいいではないか。

 

そして、辛かろうがナンだろーが、断ることを訓練すること。

その友は、あなたが断らないことが、かえって相手に依存させてしまう、と言った。そのとおりっす。

 

 

事実を直視せず、捻じ曲げて解釈しているのは、「自分は間違った」とか「失敗して」とか思っていることもそうだ。みずから分離させているのだ。

「正しい自分が」間違ったのではない、失敗したのでもない。

私(の事実)そのままのことだったのだ。

 

…しかし、過去はもういい。過去も未来もない。今という瞬間があるだけだ。

 

 


なんなりと人生に起こってくる事柄に驚き怪しむ者はなんとおかしな、妙な人間であろう。

――13 第十二章

 

もし動かすべからざる必然ならば、なぜ君は反抗するのか

――14 第十二章 『自省録』 マルクス アウレリウス

 




「わくわく」「どきどき」は幸福か?

  • 2012.12.27 Thursday
  • 22:59
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インタヴュードキュをみたいなあと思っていた俳優さんが亡くなり、生前の舞台に賭けるすがたを追いかけた番組をみることができた。

さすがに、87歳とはおもえないパワフルな様子だった。

そういうすがたというのを称賛、“まだまだ未完です!死ぬまで頑張ります”ということはよいことであるというテーマなんですね。

 

むかし落語家立川談志さんのドキュをやっていた。彼はほんとうのことを言うのでおもしろかったが、その高座はある種の興奮状態、極限緊張感だと思った。

これは絶対観ておくべきだと断言する人、あれはセックスなんだというひと、そういえば、その落語家は客が気に入らないとその日の高座は蹴ったそうで。

私もTVで観たかぎり緊張した高座ではあった。

 

舞台は、演者自体が発熱して、見る人も巻き込む。

それは、TVにもいえるんじゃないか。

元気まんたん、上機嫌、そして煽り、

この浮世ではそれがよいこととしてあるよね。

現世の煩雑から一時劇場に来た観客に、たのしいこころおどるひと時を提供するというわけか。

 

そのことを知って、浮世で生きること。

 

このところ、舞台俳優の怪我や死が続いた。

ドーパミンはアドレナリンとノルアドレナリンの前駆物質で、アドレナリン快感物質放出すれば、ノルアドレナリンが放出されるらしい、それは、不快苦痛で、心身をいためるとか。

商売じゃハイテンションをつくってゆくしかないか。

そういう姿を見るのはなかなかいいものではあるし、見て追体験するのも気持ちがいいものだ。

「わくわく」「どきどき」「ときめく」とか、そこにこそ幸福があるような言い方が一般的だが、その宴の後はいかに。

そういうものを求めていた若い時期があった。

欲望をさんさんと燃やし、そういう状態がなくなった日にはどんなにか味気ないものだろう!生きてゆく甲斐もないことだろう、とおもっていたものだった。

それも通る道だろう。

しかし私はもうたくさんだ。

脳はセロトニンのお風呂にひたりたがっている。

 

元気な人が活躍の浮世ですが、アドレナリンとノルアドレナリンのダンスを見るのも経験するのももういい。

快楽と苦痛のシーソーも、もうたくさんだ。

 

私は実際もはやそれには耐え切れないので、せめて、静かな穏やかな「元気」で浮世の残りわずかをおくりたい。

「わくわく」「ドキドキ」に幸福はあるか?

快楽と苦痛はあるが、幸福はない。…と言ってみる、それを追い求めたにんげんとして。

 

 

すなわち物事があまりにも信頼すべくみえるときにはこれを赤裸々の姿にしてその取るに足らぬことを見きわめ、その〔賞讃される所以のもの〕をはぎとってしまうべきである。なぜならば自負は恐るべき詭弁者であって、君が価値ある仕事に従事している気持ちになりきっているときこそこれのもっともたぶらかされているのである。――アウレリウス『自省録』

 

宇宙(精神)がよしとしていること

  • 2012.12.22 Saturday
  • 21:59
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アウレリウスの『自省録』には、周りの人たちに対するあれこれが結構書かれていて、ローマ皇帝の孤独と心労がしのばれる。

彼は、それらを、つまり肯定しようとしている。

この世の、下らぬ現象に対しても、また、苦や不条理などについても、

宇宙(精神)が、よしとしていることに、あれこれ言うな、と。

 

 

したがって、苦痛と快楽、死と生、名誉と不名誉等、宇宙の自然が無関心な態度をもって扱うものにたいして自分もまた無関心な態度を取らないものは、明らかに不敬虔である。宇宙の自然がこれらを無関心な態度をもって扱うという意味は、すべてのことがつぎつぎと或る連鎖に従って、現在生まれる者や後に生まれて来る者の上に無差別に起こってくるということをいおうとしているのである。――マルクス・アウレリウス『自省録』第九章

 

 

このよの悲惨な生、残酷な事柄、残忍な殺され方、理不尽な事など、こころを痛めるのは、同胞の痛みや無念を思うからであるが、ひいては自分がそのようなめに遭わない確証は無いわけで、そこに恐怖とともに切迫した理不尽さ不条理さがある。

 

ずいぶん長いこと、「なぜなんだ?」と問い、答えが出なかった。

 

この地球上(宇宙で)で起こることは、人間が是非をいうことではなさそうだ

宇宙(精神)がそうだという事実があるだけだ



 

見切る

  • 2012.12.01 Saturday
  • 22:33
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写真がある。写真というのは、そのときの感情を憶えているものでもある。

 

一枚目。

親戚が来て、庭に出て写真を撮っている。

廊下に置いてあった一人用の籐椅子を庭に下ろして、母がそこに座り撮った。

そして*子も入れということで私も籐椅子に寄った。

座ってといわれて、母の膝は禁だったので、母のとなりのすきまに座って、シャッターが下りた。

母の膝はダメという感覚がよみがえる。

遠慮して、ぎゅうぎゅうになって座っている3歳の女の子。

 

二枚目。

母に初孫が生まれ、そのひな祭りだった。

母は、初孫をことのほか可愛がり、その日も、ひな壇を背にして、孫を膝の上にのせていつくしんでいた。

それを見た小学1年の私は、膝が解禁になったのだと判断して、母の禁断の膝に座ってみた。

すぐになにかいわれながらはたきおとされた。

そのとき母の憎しみのうめきのような、その言葉は覚えていない。

初孫とたいしてかわらない私がいるのがいやなんだな。つぶされるような悲しみがわきでてきた。

そのときシャッターが切られた。

母は孫をひざにのせて、強情に私から顔を背けている。それは辛そうでもある。

私は、へらへらしている。

泥をくらったように悲しいと、そうなる。

 

 

母は意志の人だ。

頑張り屋。度胸があると言われていた。

恨みや怒りなど感じさせない完璧な役者、あるいは誇り高い幻想の鎧をかぶって生きてきた。

子供は知っている。身体に染み透っている。

それは私の中に言葉にならない違和感としてあり、60年たってやっと見えてきた。

 

 

私はわたしで、母の冷遇を自身の生存に都合のよいように解釈してあるいは見ないで、幻想を生きてきた。

このブログ内の以前の記事に、その幻想が語られているものがある。

クリシュナムルティは、ひとは幻想(観念)と幻想(観念)が関係するだけで、真に関係できない、ということを言っていた。

 

 

私のなかの、「善き母」うんぬんというご都合幻想を脱ぎ去ること

こだわらぬこと。

終わらすこと。

 


私は母に人間として扱ってもらう前に亡くしたが、やっと、母と、人間としての関係をむすべたような気がしている。

 

 

もう何十年も前、コミック『子連れ狼』だったか、「親に会うたら親を殺し、仏に会うたら仏を殺し…」という台詞があって、その意味がわかりかねていた。

そのことではないか。


「会う」こと(見ること)、そして「殺す」こと(見切ること)。

 

私の体験では、見れば見切る。



 

真実を。綺麗な嘘よりは。

  • 2012.11.15 Thursday
  • 22:27
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文学の幻想が幻想とわかれば、自然に外れたのだったが、反動的に人間と世の中の悪の部分ばかりが目に入ったものだ。

めをそらしていた分、この世界の荒れ具合がおしよせて、いちいち気になって仕方なかった。

そこには茫漠と荒野が広がっていて、泥沼に足をとられ、その真実の光景におしつぶされそうになった。

 

文学であれ、なんであれ、幻想のパターンにのっとられていたのだから、それがはずれてみえてきた荒野は、みないようにしていた現実であり、それこそが真実のすがたなのだった。

それとわかれば、いちいちおちこんだりせずに現実のありさまとして受け入れるほかない。

まあ、そんなことをいうのは私だけで、みんなそうしていたのかもしれない。

「*子、生活ってそんなもんじゃない」

「*子は現実をみていないよ」…そんな友の言葉がうかんできた。

「世の中そんなもんだよ」と、よく言ってくれる人もいる。

イヤイヤ、私とて知っていたが、目をそらしていたのだ。

 

文学―といってもいろいろあって、理想ばかりを描くものではもちろん無い。
泥沼の真実、荒野の過酷をあばくものもあるし、反転したユーモア文学もある。

基本的には文学に親しんだことが、人間という存在の複雑さを知ったし、人生をより豊かにしたと思う。

 

そして、それらのパターンがみえてきて、きれいごとのドラマ、映画、そして文学文芸にうんざりして、身を離した現在。

 

いやはや、うちもそとも荒野で泥んこだった。

泥?いいでしょう。

OK

真実ならば。

 

「この世は泥です。しかし泥田に蓮の花は咲く」

 

私の知りたいのは真実と、愚鈍なほど一途に生きてきたし、これからも、私の方法でアプローチしてゆきたいし、それでもって自分を変えたいというきもちは変わらない。

結局、私には本という方法があるばかりなことは事実なのだ。

よい本をさがして読もう。 

これからは、幻想を現実ととりちがえることなく、ほんとうに読めるような気がする。

 

幻想を廃し、真正な眼でみつめて行きたい。

真実に出会えた時はうれしい。

きれいな嘘よりは。

 

 


冷静に、そして耐えるのです。悪と不快を、そのまま冷静に受けて堪えることです。そしてそれを回避してはならぬのです。逆に、それを正確に見つめるのです。反作用的な興奮の代わりに、積極的な理解を持とうとなさるがいい。そうすればあなたはものを超えて成長なさるのです。人間が偉大に到る道は、自己の卑小をこえることにのみあるのです。

――<カフカとの対話>グスタフ・ヤノーホ  吉田仙太郎訳



 

 

地上に生きるもの、すべて「凡夫」

  • 2012.09.04 Tuesday
  • 22:38
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「ともにこれ凡夫のみ」聖徳太子『十七条憲法』第十条


 

■『自省録』のマルクス・アウレリウス・アントニヌスの奥さんは夫の躓きの傷をさすってくれるような女性ではなかったようですし、息子はあの映画『グラディエーター』の凶暴な皇帝コモドゥスだったようです。

哲人皇帝は妻も子もどうにもならなかった。

 

■クリシュナムルティは、思考葛藤が身体を傷めガンなどを引き起こすと言っていたが、自分も膵臓ガンになって死んだ。

のちにまわりに居た人からでてきた「スキャンダル」?にしても、あったことでむしろ、地上でしかいきられない人間の仕事として信頼します、私は。

失望することじゃない。

 

■ゴータマ・シッダールタは、食中毒で死んだ。

 

そのへんの人間臭さというような事が、この世に合っているではないか。

むしろ、神聖、清純、完全、神秘などという言葉はクサイ。

私はうけいれられない。

 

例外なく、にんげんとして存在した。

たぶんそうキレイなことではなかっただろう。

地上に生きるもの、すべて「凡夫」。  

例外は無いということがきもちいい。

いるとすれば、人間が願望から作り上げた偶像にすぎない。

 

 

私は昔から、理論的には超人間というか、人間のきたなさを持たない(ありえない)あるいはすくない人間と言うものを捜し求めてきた。こういうことはたぶんに文学的であるとおもう。あしきロマン主義だ。

その超人間的にはイエスがいて、実在したのかどうかはわからないが、どちらにせよ、聖書のイエスはのちの人間たちがその願望と動機でつくりあげたものがおおきいと思う。

 

 

立派なにんげんがいる

よきひとがいる

そんなひとにむしろ出会いたいと思い、出会えたとおもいたいものだからこの人だと早とちりし―ニーチェの「この人を見よ!」―幻滅するをくりかえした夢見る夢子さん、愚かな文学少女だった。

 

であるからとうぜん、人間の汚さにであうと、がっがりし、落ち込んだものだった。じっさいkrishnamurtiの女性云々には信じられなかったが、いまは落ち込むことは無い。

ただありのままをみているということだ。



 

これは不運ではない

  • 2012.08.17 Friday
  • 21:22
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イジメは、苛めるという腐った快感のために苛めるのでしょう?

己がストレス解消、暴力衝動のために、ひとを苛めて傷つけて自己の快にするというのは、一体何だ?

他者の尊厳を尊重できぬものは、当然自己の尊厳などゴミ屑のようなもので、

自分をもおとしめ踏みにじっている。

子供の親たち先生たち教育委員会と警察も、ことなかれ主義、自己保身の荒野です。

 

よわくてウザイ

ちょっとした気晴らし

まあ、そんなことはなかった…としよう

お前ががまんすればなにも起きていない

お前ががまんすればうまくいく

確認していない

????

そんな日常を送るならば、人間として生まれてきた意味が無い。

 

前にも書きましたが、息子がそんな目にあって、休ませますと父親が学校に電話すると、指導教官と担任が、その7人ほど連れてきて謝らせた。そのとき、息子の勇気がつたわってきて、こちらのほうが幸せだ、ならべられてふてくされている7人衆こそが暗く不幸に、あわれにおもえたものだった。

彼は、自分の弱さを克服することが目標になった。

 

みんな、「人間として」生きようよ。

 

 

いつものことですが、とりとめのない文章がいちだんととりとめがなく、あちこち逍遥してみましたら、このような文に出会いました。

 

 

《いじめている君へ》 春名風花さん

http://www.asahi.com/special/ijime/TKY201208160557.html

 

 

「なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!」否、その反対だ、むしろ「なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない」である。―中略―」曰く「これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である」――《自省録》マルクス・アウレーリウス





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