そのとき――椋

  • 2015.03.30 Monday
  • 22:41
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そのとき――椋

私の誕生以前から葉をゆらしていた椋の木
誕生をなかったことにしたい母 
疲れやすいからだをよこたえて 
病葉(わくらば)の降るのをながめていた 

苦難の母を抱きしめる

若葉 空からの光を透過させて ゆったりとゆれ
母のいない縁側の 少女にとどいた、
そのとき
 
 
 
 

そのとき―― 枝

  • 2015.03.20 Friday
  • 23:07
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そのとき――

ちいさな道を犬と下りてゆくと
そこには斜面に根をのばした無数の木々が
無数の枝を谷に向かってのばしていた
「おお…」美しい、そうだこれを描こう
両の指で枠をつくり、構図をきめる あれをメインにして、これらは消して…
?…いったいなにをしているのだ、私は…!
こんな豊穣な、人間には捕らえきれない圧倒てきな美にたいして「カット」するとは?
そんなことをする。描くとは、何?
 
絵を描くとはそういうことだと。
絵はやめると決心した
あなたにはできなかったのだ。そしてひそかに誇りをしまう。
 
そのとき
桜色の靄が
谷を満たした
無数に交錯し谷に伸びる木々の枝えだとともに
あたたかい生気に包まれ抱かれ
充満し
眼は融け
「私」は溶解した
そのとき





 

そのとき――翡翠(かわせみ)

  • 2015.03.09 Monday
  • 23:13
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そのとき――翡翠

…ひとりのけものにされるりゆうがわからないか?
…ひとり衆人のまえでうたれるりゆうは、わからないか?
…無視されることがわからない?
つくした師に
いや
たぶん
私が、めいわくをかけたのだ。
そこをあとにして、暗渠をわたる

そのとき
目の前を瑠璃色のものがよぎった
眼球に残像する記憶を洗うように
かつては小川だったみなもをかすめていった宝石
輝く青の生き物
風のごとくに翡翠(カワセミ)
このさみしげな現世だけではない、と
あかしのごとく
 
 

そのとき――「夕焼け」

  • 2015.02.26 Thursday
  • 17:50
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夕焼け

電車に座っていると、一見健康そうな女がそばに立った。
心臓が、わるいんです
と言った。
 
そうはみえなかったが、生まれつき心臓に欠陥があるのだといった。
わたしは席を立った。

つぎの日も、その女がそばにやってきて、
おまけに、卵巣に病があって、子ができなかった…と話した。
わたしは席をゆずった。
病気があるようには見えません、お元気そうです
というと、
胃腸はじょうぶなんです。と言った。

なるほど。
わたしも喘息だけど、胃腸が丈夫なのですよ…
と言ったが、なにも聞いていないようだった。
 
また、ある日わたしの側に立って、大学病院に行ったらサンプルにされたことを話し始めた。
婦人科の台、そこに学生が取り囲んだこと。―ハタチだった。
わたしは怒り、自分が長年受けざるを得なかった医療で受けたかずかずの屈辱をはなした。
同じ苦難を青春に味わっていた…。
そして、座っていた席を立ち、その女にゆずった。
 
気がつくと、私が運転手になって、乗客は彼女だけになっていた。
路線をはなれて好む場所に行った。
運転手は幸せだった。人のためにできるのだから!
よい人間!よいわたし!よい行動!
このうえない人生の充実感があった。
「してあげる」とは、こんなにも楽しいもの
………
………
そして、やってくる窓の夕焼け
「いったいなんだったんだろう?とおもって…」
「いったいなんだったんだろう?ね」
してきたことに意味がいるのか
ささげてきたことに代価がいるのか?
 
席をゆずるもの 譲られるもの 譲らぬもの 譲られなかったもの、すべての窓に壮大な夕焼けの空だ。
その赤は、ただ染み渡る。




 

比較しなければ―

  • 2014.12.22 Monday
  • 22:55
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比較すれば、私は病人
でも、元気なひとと比較しなければ、私は私。完璧な肉体。
 
健康基準はあくまでも参考値だ
腎臓が変形していても、13%の働きで、血液中に過剰な物質が流れていても、あるいは不足していても、
…変形も過剰も不足もなく
この状態こそが唯一の、あくまでも私だ。
生と死をさだめとした厳粛な肉体の状態。

 
健康な人と比較して、足らないものをはかっていたときは、不具者だった。
今は、そのころよりも、元気に暮らしている。
「あなたの病は癒された。立ってあるいてゆきなさい」
星とおなじ物質でできた、輝くような本性を容れる肉体は。




 

「知りたい」からの後ずさり。

  • 2014.10.25 Saturday
  • 07:31
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むかしの?であった「原体剣舞連」に再会して、「鬼剣舞」、「鹿踊り」と興味をもち、調べてゆくうちに、古代製鉄に行き当たった。製鉄にフイゴとして鹿の皮をまるごと使うらしい。「鹿踊り」は、その「ごめんね」の舞でもある、という説があった。
古代製鉄(たたら)は、砂鉄を高温で熱して粗鉄をつくり、それを熱しながら叩いて精製する。武器や農具になった。鉄こそ国家、国を支える仕事であったとだろうが、遺跡や碑はみあたらない。はからずも地名や苗字に残っている。「金」はそのまま鉄のことで、「菅」は、スゲといい砂鉄のことだとのこと。
製鉄は、川砂を大量に必要として、川が変わるくらい採取しなければならなかったし、炭をつくるのに山がはげるほど木を切ったといい、自然と共生してゆく農民には嫌われたそうだ。
国の主たる産業は稲作であり、そうでない民は、辺境に―山などに、入ってゆく。
アウトサイダーのゆくえには興味があり、山の民―マタギ―山伏―修験道まで迷い込みそうになったが、このへんにしておこう。
 
「知りたい」と点火する。つぎつぎと疑問点が湧き上がり、それを調べて「そうなのか?」「わかった!」という作業はとても心躍るものだ。
専門家は慎重に証明をかさねてゆき、論をつないでゆくが、私などはただ興味の赴くままにしらべてちょこちょことした断片を見て、解ったつもりになっている。ただそういった行為のみがながれてゆく。
これを満たしてこうどうしているときほど、わくわくすることはない。
知的好奇心と探究。いまはネットでなんでも調べられるので、むかしのように図書館や資料館などに行かなくともあるていどはしらべられる。
わからないことがわかってゆくことのこのうえないよろこび!そしてまた疑問がつながってゆくことのはてしなさ!
知りたいという知的好奇心には、不思議な快感がある。
 
しかし、はたしてわかったのだろうか?
「知らない」ことはわかった。
知りたいとは、エゴの一種ではないだろうか?
知ろうとしなければ、「知らない」ところに、私はとどまってみたくなった。
「知りたい」の手を放してみる。
 
 
先日、TVで、立花隆の臨死体験を検証するものを見た。
「ガンマン」にして、相変わらず、エネルギッシュに臨死体験者をたずねて、体験を聞き、科学者に死を聞いてまわっていた。「知りたい」満々のひとだ。
 
たとえば、人間の脳細胞をミクロ単位に研究して、人間がわかるだろうか?わかる部分はひじょうに先鋭的な部分だ。臨死を科学的に研究しても、脳に電極を埋め込んでも、わかるのは生物的な終止だけだろう。細胞=物質から手を放すことで、知られることもあるだろう。
 
番組の最後に、立花氏は、臨死体験の理解に先鞭をつけたレイモンド・ムーティー氏に会いに行く。ムーティさんも臨死体験をしたそうで、歳を重ねた氏のありようは、柔らかく晴れ晴れとして温かく、分解してゆくことで知ることではえられないものを得たひとの笑顔だろう。





 

現実を失っている

  • 2014.09.18 Thursday
  • 17:52
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私たちのやりかた・生活をあらためてみてみると、現在を刻々と失っていることに気づく。
 
頭の中では、過去のデータが自動的にまわり、未来をみて、現在を失っている。
つねに、「つぎ、つぎ、」と思考はおいかけて仕事をしている。現在を失って。
過去も未来も幻であり、現在を失うとは、すべてをうしなうことだ。
しかし、現実に留まる・生きるということは、難題でもあって…
 
■呼吸を意識する
下腹(臍下丹田)を意識して、静かに深呼吸する。その間はなにも考えていない。宇宙に繋がっているといわれる。
 
■いままさにしていることを、こころのなかで言う。慣れれば意識するだけになる。
たとえば、皿を洗っている…お湯がながれる感触…水の音…陶器の触れるおと…
していることに一切の評価をしない
 
 
こと自分には、「自己実現のための行動」というものがあり、それこそがなすべきことであり、それ以外はのがれるか一刻も早くそれを終わらせるものだった。
たとえば仕事を一刻も早くおわらせて、「自分の時間」にはいること。
 
「絵なんて、よくそんな時間があるわね」といわれれば、
「時間は無いよ。それは捥ぎ取るのよ」なーんちゅうイサマシイことをいっておったが、
まさに私はそう信じ、実行していた。
ゆえに、私のタスクの多くは一刻も早く終わらすべきものであった。
姉に「*子は、ほんとうになんでも夢中でやる。皿洗いも!」とあきれられていたように、私はいっこくも早く終わらせたかったのだ。「自分にかかわる時間」に入りたかった。
しかしさて、いざ「自分の時間」にはいると、なにもできない…。そうやっていそいでおわらせて、目的の場=自己実現の場にやってきたところで、なんのインスピレーションもやってきはしなかった。
そうやって、ただつぎつぎと現在をスルーして=人生を失って、墓場にいそいでいたとしか言いようが無い。
 
ばかな生き方をしていたのだが、わかってみると、いかに先へ先へと思考して、現在をすっかり失っているか!つまり人生をうしなっているのだ。
そこで、たとえば皿洗いをしているならば、もはや皿洗いは一刻も早く終わらせるべき価値しかない仕事だとは思わない。そこをじっくり感じとる。洗った皿を拭き移動するなどという行為にも意識を向ける。そうするとそれらのひとつひとつが魔法のように親密になる。現実のまるごとそこに在ることが体験される。
茶道でいう<残心>というものは、所作のひとつひとつをじっと意識しながらすすんでゆく。能もイメージしてみる。
どんなことでも、だ。現実に良いも悪いも無い。ただそうある。時間の質を評価はしない。自分の行動を評価しない。
ただ、意識することが、今を生きることであり、その充実感は、……よいという範疇をこえてしまっているので、言葉でどう表現していいのかわからない。
 
 

人がつくった「不条理」

  • 2014.09.11 Thursday
  • 22:41
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顱,覆次苦であり悲惨なのか?何故この世は不条理か?
………わからない。
わからないままであれ、じゅうぶん経験して、矛盾や苦を味わい、そこを超えることこそ、この世に生かされている意味があるんじゃないか?
この世を錬獄というじゃないか。
そのことによって進化してゆくならば、この世では、無残である必要すらあるのではないかと?
 
髻ゞ譴眸畛瓦癲△△覆燭いう概念、人間が表現した言葉だ。ひとがつくったということも
できる。
すべては、ただ、そう、そのまま、そう(不条理ならば不条理)、としか言えない。
むしろ、そういうことのない状態があるだろうか?
地球46億年の、全海洋蒸発や全球凍結、強力な個体の襲撃に怯え、逃れ、そのたびに
爆発的に進化していった生物。
苦と悲惨そのものではないか? それこそが、生物の息なのだと。
 
顱〇爐箸いΔ發里―ひいては生そのものが、本来不条理でない。
動物の死は悲惨だろうか?
思考=エゴにかかる人間存在が切断や痛みや恐怖などを、不条理となづける。苦も悲惨も、そう名づけた人類のつくったなにものかであり、それ(思考=エゴ)にのっとって苦しみ、「悲惨な状態」を作っているといえるのかもしれない。そしてそれが、いいかたはおかしいけど、そういう必要すらある、のではないか?それを超えるために。
 
髻,い錣罎訶傾颪世辰燭蕁△覆砲眇焚修靴覆ぁ
矛盾があり、不快や憂鬱、苦しみなどをうけとめ、そんな不条理だからこそ、なんとかもがきながら、やってきたんだ。
整然とした「条理」の世界がもしあるとして、そこに生きる意味はあるのだろうか?
 
顱〇弭諭瓮┘瓦砲泙せた状態をなんとか脱し、それでも沸いてくる思考を意識しながら、
いまここにあれば、自然とある場所へきていることがわかる。
そこは、いわゆる苦もない。思考=エゴが苦であったとわかる。 
本来苦なんか、無いのかもしれない。現実だけがある。
とはいっても、現実に苦がそこにあるのなら、それをうけとめることが、そこからの脱却。
 
髻仝ること。意識すること。
顱,瓦泙してしまっては、せっかくのチャンスをのがしてしまう。
 



 

そらごと、たわごと、まことあることなき

  • 2014.08.31 Sunday
  • 22:46
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そうだとすると、このような疑問がでてくる…
意味なく無残に殺され死んでいった人たちは、いったいなんだったのか?
とりわけ蹂躙され無残に殺されたひとは!神がいるならばなぜこんなことをゆるしているのだろう?
 
■それは、彼らがもうひとつの世界へと移動し、幸せだと知っているからです。――P167
 
■それと同時に、死でさえ完璧であり、あらゆるものが、より大きなタペストリーの中で、予定どうりに展開していることもわかっていました。――P167
 
■どのようなひとでも、死後に裁かれるなどということは絶対に無い…。――P168
 
■何の判断もせずに、自分の感情の全スペクトルを受け入れることでのみ、無条件の愛という自分の純粋な本質とつながれるでしょう。
         ――――以上、アニータ ムアジャーニ『DYING TO BE ME』より
 
 
ひとを助けても報われず、ひとを傷つけても赦される、というのでは、正義がなっとらんし、不条理感満載ではないか。
しかし、不条理とはなにか?
<不条理>という概念は、条理にあらずということです。
では条理とは何でしょうか?条理というとき、それは人間のこしらえた概念であり、人間社会、人間一般あるいは自分に都合のいい法則といえるかもしれません。
たとえば条理にかなった「理想の」世界は、人間の頭の中だけで地上のどこにもありません。それでも、社会が運営されるためには、「理想」に近づくことを努力されていますが、もとをただせばそれは、うまくやって繁栄したい人間の概念であり表現です。
そのような思考(概念)を離れてみれば、現実(=不条理)はもっとシンプルにただそう=「不条理」なのだ、ともいえます。
 
では、生は、無意味に苦しみ、無価値に死ぬのか、といえば、そこにはかくされた意味があるわけです。それはなにか?といえば、それが無いことをかんがえてみればわかるとおもいます。(次回に触れる予定)
不条理というならそれを生きる。
だからこそ、この世に生きるいみがある。あとは、与えられた運命を「どすこい」するしかありませんね。


 
「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」
                                       ――『歎異抄』(『真宗聖典』P.640
 
 
 

この地上での悪行の犯人は…

  • 2014.08.20 Wednesday
  • 22:30
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アニータさんの本で、興味深かったのは、罪を犯したひとの箇所でした。
 
生まれついての残虐傾向な個体というものを否定できない、とおもうので、ひとくくりにはできませんが、犯罪者の環境などを知ってゆくと、なんとかならなかったのだろうか?とおもわせるあわれな面もでてきます。
かといって、じぶんや愛するひとが被害者になれば、せめて犯人には同じようにしてやりたいとおもうでしょう。犯罪者=悪=断罪 というのが、現実の心情でしょう。
ひとがムゲに虐待されリンチされ殺された、ということには、ほんとうに不条理の壁にぶつかってしまいます。やるせなく、どう報復してやるかと考え、せめて正義を下そうと考えます。
いっぽう、国家が殺す死刑は、私には戦争で殺人をさせるのとどうように、ぬぐいきれない違和感があり、はっきりいってはんたいです。
償わせるというなら、死なせて報復するよりも、生かして償わせることはどうだろうか。
しかし、なかには残虐な個体もあって、いくら生かしても悔悟に至らないかもしれない。
…などと、あいまいな立場で、アニータさんの臨死体験をよみました。
 
アニータさんは、臨死体験中、判断識別という作業がなくなったと書いています。
そこには思いやりだけが存在した。と。
そして、これまで考えたことも無い理解に達しました。
 
■ですから、世の中の犯罪やテロの被害者はもちろんですが、その犯罪者やテロリストに対してさえ思いやりを感じるようになりました。
■そのような人は、混乱やいらいらや苦しみや自己嫌悪でいっぱいにちがいなとわかったのです。こころの病気にかかっているせいにちがいない。――p166
 
■“彼ら”は存在せず、すべてが″私たち“なのです。私たちはみんな一つであり、私たち自身の創造物で、私たちの思考や行動や信念が創りあげたものです。犯罪者でさえ、自己嫌悪や苦しみの犠牲者なのです。――P167
 
■(犯罪者は)二元性の中で動けなくなり、自分の創造のセンターから離れてしまうのです。――P254
 
■向こう側の世界には、非難や糾弾は存在しません。なぜなら、非難すべきものは存在しないからです。私たちはだれでも、純粋な意識なのです。
 
■多くの人は死後審判が無いというのが気に入らないようです。人は、自分の悪行に対して責任を取ると考えたほうが楽なのでしょう。
 
■……他人にそれほどまでの苦しみを与えるくらいですから、自分自身の内側はこの上なく不幸だったにちがいありません。ですから、彼らに必要なのは、あの世での審判やさらなる苦しみではなく、誰よりたくさん思いやりを与えられることなのです。
 
■すべてが、“私たち”なのです。――P257
 
■他人を傷つけることは自分を傷つけることと同じ……――p258
 
 
 
弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし。
                               ――歎異抄第一章
 
阿弥陀仏の救いには、年老いた人も、若い人も、善人も、悪人も、一切の差別はありません。ただ、真実の信心一つで救われるのです。
 
 
 
煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを 憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、 他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。                    
                                              ――歎異抄第三章
 
や怒りや愚痴などの煩悩でできている私たちは、どうやっても 迷いを離れることができないのを、阿弥陀仏がかわいそうに 思われて本願をおこされたねらいは、悪人成仏のためですから、阿弥陀仏のお力によって、自惚れをはぎとられ、醜い自己を 100%照らし抜かれた人こそが、この世から永遠の幸福に生かされ、死んで極楽へ往くことができるのです。(中村僚氏訳) 
        
 
 
この地上での悪行の犯人はたった一人しかいない。人類の無意識だ。そこに気づくことこそ真のゆるしである。ゆるしによって被害者というアイデンティティは消え、真の力が生まれる。「今に在る」という力だ。闇を非難するよりも、光をもたらすべきなのである。
                ――p174『A NEW EARTH』エックハルト・トール




 

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