病気という幸いもある

  • 2017.10.07 Saturday
  • 21:47

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自分の心身は、一応まちがえずにに動くことを信じている。そうやって働ける。もし悪くなればさまざまに治療して、よくなってリセットしはじめて働けてこれこそが自分なのだという設定があった。就職では健康ですか?と聞かれる。だから健康であることは生きることの必須条件なのだ。

私のかつての喘息の発作はひどく行動を制限されるが、いづれすっきり直るものでもあって、リセットされる。むしろすっきり感さえある。

失うものはたぶん発作の時間だけであり、ほかは無かったし、むしろよく働けた。

そういう私は病気のなにもわかっていなかったといまおもう。

いまははっきり進行してだるさや疲れ易さやもろもろがじょじょにましてきて、これは行動はもちろん人生も制限してくる。病気が主役になり、働くことや、楽しみごとなどはどんどん制限されてくる。これは自分が望んだものでないし、人生でもないとおもう。

しかし、望んでいないのなら異物なのか?来てしまった忌むべきものなのか?

私は、これまで読んだりした不治の闘病のひとのこころを、やっとおもいやることができるようになったとおもう。なおらない。この現実がいづれ自分の命をうばう。自分の人生も制限する。そうおもったじきもあった。

しかし、ちがう。

病気というと悪い意味、それからは脱出すべきものとしてあるが、そうではないと私はおもう。健康でなければ生きられないか?そうか?それもひとつの真理ではある。

 

病気こそ自分。

病気というと忌むべき言葉になっているから、そんなことを言うことは憚られる風潮はあり、それはそれでいいと思う。違う世界のようにも思う。

自分というものは病気なのだ。私のばあい遺伝病なのでとくにそれはおもう。

そういうことを、伴侶がことあるごとに私がおちこむごとに、いいんだそれでいいんだといいきかせてくれた。できないならそれでいい、できることをしていきてゆけばいい、と。

私はそれを何度も言わせた。病人がわからずやだったからだ。

いまは、やっとわかった。じぶんは病気であり、それを生きていると。

じつに生きるに値する。

 

 

RANPO's和漢診療科

  • 2017.09.17 Sunday
  • 17:43

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そのように、大学病院で、とりつくしまもなく誘導されたところへ、いままでどおりの処方を出すということなので、そのクリニックにとりあえずは行ってみた。

立派な建物で1階は広々とぜいたくなつくりのバースクリニック。案内された二階はうってかわって冷房もなく扇風機がぶんぶん回っていた。電気もついていない狭い廊下の椅子で待っている7人ぐらいのひとたちは、私とおなじようにこの主治医にパワフルに畳み込まれ、ここに来たのだろう。釈然としないふんいきで暗くボー然とすわっていた。

診察が終わってひとり暗い廊下を幽霊のように歩いていったひともいてぎょっとした。呼ばれて襖を開けた。宿直部屋のような狭い和室の畳にかろうじて診察セットがおかれDr.がいたが、必要最小限のことを小さな虫のようにささやくだけ。あのパワフルに説得した大学病院のDrか。まるで江戸川乱歩の世界。面白いが、なにやらあやしげ。そのことがわかったので、ここは終了することに決めた。次回ほかの病院の漢方医に紹介状を書いてもらう。

 

このDr.は、大学病院でその診察の始め、「道が混んでたいへんだったでしょう?混むんですよね!」と患者に思いやることばをかけた。

私は会ったとたん、心身がはたと沈黙した(閉じた)かんじがした。初見で、言葉にならないものを感じ取る断固とした速さ。一瞬。

 

 

 

 

願望という我侭な代物

  • 2017.08.05 Saturday
  • 22:41

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病院にて。

診察を待っているあいだ前回と変わった症状を書いてくださいと紙と鉛筆をわたされるようになった。順番でよばれて、Dr.は書かれた紙をみて血液検査の数値をみて、講評し、薬の処方、次回予約で終了。効率よくなったが、AI化してきたなあと。

 

 

相手のことが思うようではない、気に入らないということで、はげしいケースで障害事件がおきるが、なぜ気に入らないんだろう?と、あらためて考えてみた。それは、こうあってほしいという願望をうらぎられるからではないか?願望って勝手だよね。私のばあい主治医は少なくとも人間として対応してほしいという願望がある。けっして機械的に処理してほしいとはおもわない。聞いてくれるだけでもいい。しかし医師には医師の事情というものはある。それをかってに願望する自分が現実離れしているのだとおもった。対医師だけではない。この世のファクトに対し、願望無しで素直に受けとめれば、いいんだ。

私たちは良い悪いと教育されてきたし、○×のふだをもって随所判定を下しながら旅をしているようなことをしている。

そうおもったら、なにかがふっとはがれて、かるくなったようではある。

 

本は理想を語るよね

  • 2017.07.02 Sunday
  • 17:33

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ちいさいころから本の世界が優勢だった。そのせいか、

「真善美」がどこかにあって、自分は逢っていないがいつかは…と、なにかとひっぱってきた。

 本は理想をかたりそして信じさすものだ。本気で信じていたもの。そういう人間にとっては、現実の一歩一歩が「そうでない」という音を出していたのもかかわらず、現実のほうがまちがっているなどとおもっていたふしがある。

 

いつまでもそんなことを思っていられないが、真善美の理想の世界はなくとも、むかし…よき時代というもの…が、人類の歴史に存在したことはなかったろうか、と、往生際わるく、モンゴロイドの口承『1万年の旅路』をわくわくしながら読んだものだ。口承は嘘とはおもえない。そのようなとびぬけた才能が出現するのが人類だから。しかし伝承口述するうちに変わってきてしまうのはしかたないことで、つごうよきほうに変わってしまうだろうし、わるいことは捨象されてゆくだろう。したがっていいことしか伝言継承されないということになってしまう。読んでいてその“よさ”が。まあそんなものだろうとはおもったけれど。

 

縄文時代。この時代には「よきもの」がしはいしたにちがいないとおもった。なぜならば6000年(〜10000年)持続したからだ。それだけでも圧倒する。それだけでも“よき時代”ではなかったか?ひとがよきものにふれて伝承されていた時代だったのではなかろうかと。この時代は自然が圧倒的で、自然として人間も共存できた。加曾利貝塚で犬の埋葬(骨)を見て以来、ながいあいだあこがれと興味をむけていた。しらべてゆく内に※、縄文時代は神話が圧倒的な世界であり、神話というものは簡単に言っちゃえばひとの都合だ。エゴが体裁よく形になったものだ。願ったりまとめたり排除したり支配したりするための文脈と儀式。定住にともなうさまざまな問題、個人としてだけではない死、成人や婚姻時の抜歯など、たいへんな世界だったのではないか。優劣上下が無かったわけではなく、持てる者はこの時代にも勝者であったという。

 

ようやく、縄文の熱は冷めはじめ、私の信じたい真善美などというものは、幻想にすぎないことがわかった。わかったことでポンコツの理想探索機はやっとポンコツ人間に落ち着けたような気もする。

 

パンドラの箱とは自分及びひとのありさまであり、人間の作り出した世界だ。

生物が発生したときからの弱肉強食の掟。力の強い者、持てる者、頭の良い者が優勢し支配し食し続け蹂躙しつづけている。そうでないものももっとそうでないものを食べ踏み潰さなければいきてゆけないようになっている。

 

エゴというのはひとの標準装備でありイジメは古くからの器官なのではないのか。パンドラの箱から最後にでてきた希望という名の羽虫も、いまや羽やぶれ青息吐息。この惑星では、生物が発生したと同時の弱肉強食の掟。霞を食っていきてゆかないかぎりこの掟は超えることはできないよ〜ん。これからはAIのせかいらしく、人間はどうなるのだろう?この惑星はどうなるのだろうね?

 

※参考:西田正規著『縄文の生態史観』『人類史のなかの定住革命』

 

知りたいという原動力

  • 2017.06.17 Saturday
  • 17:21

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ここにきておもうのは、「なにかをさがしていた」と、しきりにおもう。

それは、社会と自分にむきあって、「ほんとうとはなに?」というおもいでふみだし、人生の時を使い、「さがしていたなあ」という感慨にあたった。

行動は「知りたい」という原動力でうごき、疲れ知らずだった。弱い身体なりに知る事だってできる。

この世の、人間の、ありさまを知りたかった。

もちろん欲望にささげられたものもあるし、社会にあわせようと頑張った部分もある。

 

現状がーというか自分がーあまりに無残なゆえにか、真善美がどこかにあって私には無く見えていない、それをみたいきいてみたい知りたい、と、そのことに人生の時を費やした。そんな感慨。

 

林の中の…

  • 2017.04.30 Sunday
  • 17:43

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来たかったところだなあ ここは。

一生、樹をながめていきてゆきたいとねがったものだ

 

もう終わりかとおもいましたが…

  • 2017.03.29 Wednesday
  • 16:40

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ながくお休みしました。

なかなか身体のほうがしんどくなって、かくことアップすることからとおざかってしまいました。

これまであれこれと書いてきましたが、ことばにして意識することで、そこを卒業することができたようです。

書く。自分の内面を書くということを中学生の私に教えてくれ、自分も書き、文学全集を買ってくれ、詩人の心を共有財産だと言ってくれた兄のなによりの贈り物だった。

無意識のものをいしきしてゆくことはとてもハードで痛みもともなう。そうであってもやはり意識してゆくことがそこを卒業することにつながるということを身をもって知った。

 

私の深層にまだ無意識に抑圧しているものがあるかもしれないが、うかびあがったものをひとつひとつ意識してゆくしかない。意識すれば、人間はどうしようもなくまちがえるものだということを知り、知ることでそこをおわらせることができる。

OSHOは、過去は幻想だと言う。

書いたものも、幻想にちがいなく。

 

 

 

思考(マインド)のすがた

  • 2016.12.11 Sunday
  • 21:49

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思考(マインド)のすがた

目覚めたとたん、奔流のようにおしよせる。それは濁流。私が無防備だからやってくるのか。くるしいよ。否定形がおしよせる。これが、思考の姿なのである。そうにちがいない。めざめ、ゆだんなくしていなければ、この濁った奔流に人生をながされおわってしまうのだ。こわいことだ。こんなことで人生を棒に振ってしまうのか?

私は眠りと目覚めのあわいに、とどまって、ただ濁流をみる。

こころにつきささる記憶や感情の断片などの汚物がながれてくる。

これに流されてしまったら、人生もそうなっておわってしまう。

 

それにとどまりたえることをしつづけていると、ようやく流れも弱くなってきた。

かつて私は、こんな濁流に一日中流されていた人生だった。

それはもんだいであり、それをなんとかしなければいけないのだと信じていた。

反対であった。なんとかしようとしても、じらすばかりの未熟さしかもちあわせていない。

しっかりみつめることこそがにんげんにできることであり人間がすることだとおもう。

認識すれば消えるという強力な答えをあたえられた。

そのような方法があることに感謝したい。

放り出されただけの存在じゃない

 

なんでもない時間がきらめく

  • 2016.11.12 Saturday
  • 21:54

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横になって日をすごし、さて起きて、ごはんのしたくをはじめる。

ふいに窓の外の木々の葉がひるがえりきらめく

なんでもないこんな瞬間がきらめく たしかにきらめいたのだ  

 

なんでもない木の葉っぱは、見る価値はない語るにたらない…素晴らしく描かれた葉っぱを賞讃する。小手先の技術を称え、真実のいのちの姿をみない。

社会はそういうふうに成熟してきて、いうなれば進化のひとつだとおもう。ひとの能力が最高値にまで達する。進化とは超えることでもある。

それがまた、なにかさりげないことに超えられる時というものがあるのだと、うっすらとだがかんじた。

 

私の、寝てすごした時間、ぼんやりしていたじかん、ご飯の仕度をするじかん、ちっぽけな欲望にかられて右往左往していたじかん。

なにをして、何を思っていた瞬間であれ、すべての瞬間が、きらめいていた…

とくべつななにかをほめられるなにかをしたときだけでなく。

あの葉のように…

 

しらなかった。

世の価値をはかるスケールをにぎりしめて、自分をも測っていて。

なんでもない時間はきらめかないと、いったいいつきめたのだろう?

 

 

 

経験の地上

  • 2016.10.21 Friday
  • 22:15

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前の文でもふれたが、了解したくないことにたいしては、「了解しようものなら傷つく」とおびえているが、じっさいからだごと了解したとたん、嘘がしりぞき、光がさした。そのひかりは真実をうつしだすものであり、自分は世の中のことにたいしても、「きれいごと」をもとめていたことがわかった。じっさい、ヒトや世の中に対して怒ったり不快になったりするのは、「よい」がベースにあるところからくる。じぶんをふくめそんなよくもないし正しくも無いとおもえば、どんなことにも腹は立たない。そんなものだろう。で終わり。しかしそこからでないと、なにもはじまらないだろう。救済もそこからはじまると私は思う。

 

はじめから、「自分は考えない」というのはちがう。

この世は、さまざまなマイナス事項を課せられて、レベルアップするために生かされている。悩み、考え、ごまかし、無視してもみるが、なにひとつそんなことでは解決しないということを思い知るところに、ひらけるものであることは、それを経験したひとの知るところだろう。

 

 

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